た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
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無計画な死をめぐる冒険 132

2009年06月17日 | 連続物語
 秒針が沈黙を刻む。
 手帳を叩くペンの動きが止まった。
 威圧的な肩幅を持つ男は身を乗り出した。「あなたは彼を恨んでいた。自分の母親の愛人を。そうだろう?」
 人形のような女は、かすかに震えながらも、毅然として男を見つめ返した。
 「はっきり憎んだのは、母が自殺してからです」
 自殺? 私は激しく動揺した。気が狂いそうになった。雪音が車に轢かれたのは、自殺だったと言うのか?
 私の疑問と同じことを警部は口にした。
 志穂は小さくうなずいた。
 「そうです。私はそう信じています。母は自分から車の前に飛び込んだんです。それはあまりにも上手く行き過ぎたんです。誰も事故であることを疑わなかった。上手く行き過ぎたんです。でも、警部さん。母には、その日、その信号を渡って行く用事なんて、一つもなかったんです。母は、私の母は、自分から死ぬつもりもないのに、赤信号を無視して横断するような人じゃありません」
 警部の眉間に深い皺が刻まれた。
 「飛び込んだとすれば、何のために」
 「私は、母が死ぬ前の半年間、どれだけ孤独だったか知っています」
 警部はうむ、と唸って鷲鼻を両手の中に沈めた。志穂の言葉が畳み掛ける。
 「母は裏切られたんです。利用されたんです。母は毎朝、涙で頬を真っ赤に腫らしながら起きていました」
 「遺書も何も残っていなかったが」
 「わからないんですか。事故を装ったんです。母は成功したんです。事故を装うことに。演技のまるで下手な人だったけど、最後の最後は成功したんです。信号無視というニュースにもならないような事故を装ったんです。自殺したとなると、良心の呵責に苦しむ人が出てくるからです。でも実際には、あの男には良心の欠片すら無かったのに。母は泣きたくなるほど優しい心の持ち主だったんです。あんな男、あんな男にさえ、自分を虫けらのように捨てたあんな屑みたいな男にさえ、罪の意識を背負いさせたくなかったんです、母は」

(つづく)
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