一時間が経った。
トレンチコートは残骸のように酔い潰れ、カウンターに突っ伏して寝入っている。女主人は、紫煙越しにガラス張りの暗いドアを見つめて動かない。
ガラスに人影が映り、彼女は息を呑んだ。このまま失神するのではないかと思った。
敏男さん。
ドアが開いた。
紳士服の広告からそのまま抜け出したような着こなしの中年男。バーバリのマフラーをしている。十年前は、もっと派手なマフラーだった。でも、何も変わってない。何も変わってないじゃない。女は緊張のあまり震える手をシンクの縁に押しつけた。新参の客もまた、警察の前に突き出されたかのように戸惑っている。酔い潰れた先客に気付くと、彼はさらにうろたえた。
「いらっしゃい。ようやく────ようやく来てくれたのね」
「すまん」
「どうしたの?・・・ああ、このお客さんは大丈夫。水割り十三杯で完全にご就寝」
「いや、でも・・・」
「ねえ、道路標識じゃあるまいし。ぼーっと突っ立ってないで座ったらどう?」
「由紀子」
「何よ」
「申し訳なかった」
絞り出すように言うと、男は深々と頭を下げた。
「何が?」
由紀子の声色が変わった。目には煌めくもの。
「さっきから何を謝っているの? ねえ、何について謝ってるの? 私が十年間、四方八方に手を尽くしてあなたを探し出した苦労のこと? それとも十年前、堕胎の費用を私が全額負担しなけりゃならなかったこと? それとも、そのときの手術の失敗で、私が一生子どもを生めない体になったこと? それとも、それともあなたにゴミのように捨てられたこと?」
言いながら彼女は泣いていた。
「ごめんなさい。ごめんなさいね。大事な大事なお客さんを立たせたまま、こんな昔話にふけるなんて。どうしちゃったのかしら、あたし。さあ、座って」
十年前、別れ際に予告したこと、あなた覚えてる?
中年男はマフラーも取らずに腰かけた。
「何をお飲みになるの」
「いや、僕は・・・」
「何よ」
「僕は、君に来いと言われたから・・・」
女の表情を見て、男は慌てた。
「・・・あ、いや。ビールを頼む」
値札のつきそうな笑みを、由紀子は浮かべた。「はい、ビールね」
店のドアを時折夜風が揺する。
ビール瓶はカウンターに二本。バーバリのマフラーは、いつの間にか壁に。
「あれから・・・」
「何よ」女は自分のビールに口をつける。
「いや・・・あれから、十年か」
「あれからっていつからよ」
女は細い煙草に火を点ける。「あなたに捨てられてからってこと? それとも腹の子を失ってからってこと?」
「いや・・・」男は拳に汗を感じる。「ところで、その・・・法的措置は諦めてくれるのか」
濃い煙を、女は口から吐き出した。
「せっかくのお酒を不味くするような話はやめてよ」
「でも君が・・・」
「うるさいわね」
女は苛々して煙草を揉み消した。
「約束は守るわよ。あなたがここに来てくれたから、あなたのご家族を悲しませるようなことはしないわ。安心して。ええ。あたしは、約束は守るわ」
男は呻いた。やはり、この女は実行する!
「ビールが空いたわね。お次は何」
十年前の別れ際、お前は言った。今度会ったら、必ず殺す、と。
「もう飲めない。僕はそろそろ・・・」
冗談でしょ、と女の低い声が聞こえた。これからじゃない。
冗談じゃない、と男は心の中で毒づいた。
由紀子はシンクの縁を握り締め、唾を呑みこみ、それからひどく陽気に言った。
「とっておきのを出してあげる」
自分の声ではないような気がした。
彼女は足元も覚束なげに丸椅子の上に乗ると、棚の一番上から葡萄色の瓶を取り出した。抑えようとしても、手が震える。
男は死人のように蒼ざめた。「まさか」
「そのまさか。そのまさかなの。十年前、前の店にいたとき、敏男さんが最後に入れたボトル」
栓を密封するテープがぺりぺりと音を立ててはがされる。
「・・・その、いくらなんでも、もう飲めないだろう」
「大丈夫。ブランデーに賞味期限はないの。思い出と同じ」
グラスに注がれる液体は、溶けたべっ甲飴のような粘り気のある色をしていた。
「さあ」
「いや・・・それは・・・」
これだ。これだ! これに仕込んであるんだ。ほら、やつの額を見ろ。汗をかいてるじゃないか。畜生!
敏男はすでに体に毒を盛られたかのように狼狽した。顔面は蒼白になり、全身に冷たい汗をかいた。酔い潰れた先客を、彼は目の端で睨みつける。
なぜ泥酔してるのだJK! (つづく)
トレンチコートは残骸のように酔い潰れ、カウンターに突っ伏して寝入っている。女主人は、紫煙越しにガラス張りの暗いドアを見つめて動かない。
ガラスに人影が映り、彼女は息を呑んだ。このまま失神するのではないかと思った。
敏男さん。
ドアが開いた。
紳士服の広告からそのまま抜け出したような着こなしの中年男。バーバリのマフラーをしている。十年前は、もっと派手なマフラーだった。でも、何も変わってない。何も変わってないじゃない。女は緊張のあまり震える手をシンクの縁に押しつけた。新参の客もまた、警察の前に突き出されたかのように戸惑っている。酔い潰れた先客に気付くと、彼はさらにうろたえた。
「いらっしゃい。ようやく────ようやく来てくれたのね」
「すまん」
「どうしたの?・・・ああ、このお客さんは大丈夫。水割り十三杯で完全にご就寝」
「いや、でも・・・」
「ねえ、道路標識じゃあるまいし。ぼーっと突っ立ってないで座ったらどう?」
「由紀子」
「何よ」
「申し訳なかった」
絞り出すように言うと、男は深々と頭を下げた。
「何が?」
由紀子の声色が変わった。目には煌めくもの。
「さっきから何を謝っているの? ねえ、何について謝ってるの? 私が十年間、四方八方に手を尽くしてあなたを探し出した苦労のこと? それとも十年前、堕胎の費用を私が全額負担しなけりゃならなかったこと? それとも、そのときの手術の失敗で、私が一生子どもを生めない体になったこと? それとも、それともあなたにゴミのように捨てられたこと?」
言いながら彼女は泣いていた。
「ごめんなさい。ごめんなさいね。大事な大事なお客さんを立たせたまま、こんな昔話にふけるなんて。どうしちゃったのかしら、あたし。さあ、座って」
十年前、別れ際に予告したこと、あなた覚えてる?
中年男はマフラーも取らずに腰かけた。
「何をお飲みになるの」
「いや、僕は・・・」
「何よ」
「僕は、君に来いと言われたから・・・」
女の表情を見て、男は慌てた。
「・・・あ、いや。ビールを頼む」
値札のつきそうな笑みを、由紀子は浮かべた。「はい、ビールね」
店のドアを時折夜風が揺する。
ビール瓶はカウンターに二本。バーバリのマフラーは、いつの間にか壁に。
「あれから・・・」
「何よ」女は自分のビールに口をつける。
「いや・・・あれから、十年か」
「あれからっていつからよ」
女は細い煙草に火を点ける。「あなたに捨てられてからってこと? それとも腹の子を失ってからってこと?」
「いや・・・」男は拳に汗を感じる。「ところで、その・・・法的措置は諦めてくれるのか」
濃い煙を、女は口から吐き出した。
「せっかくのお酒を不味くするような話はやめてよ」
「でも君が・・・」
「うるさいわね」
女は苛々して煙草を揉み消した。
「約束は守るわよ。あなたがここに来てくれたから、あなたのご家族を悲しませるようなことはしないわ。安心して。ええ。あたしは、約束は守るわ」
男は呻いた。やはり、この女は実行する!
「ビールが空いたわね。お次は何」
十年前の別れ際、お前は言った。今度会ったら、必ず殺す、と。
「もう飲めない。僕はそろそろ・・・」
冗談でしょ、と女の低い声が聞こえた。これからじゃない。
冗談じゃない、と男は心の中で毒づいた。
由紀子はシンクの縁を握り締め、唾を呑みこみ、それからひどく陽気に言った。
「とっておきのを出してあげる」
自分の声ではないような気がした。
彼女は足元も覚束なげに丸椅子の上に乗ると、棚の一番上から葡萄色の瓶を取り出した。抑えようとしても、手が震える。
男は死人のように蒼ざめた。「まさか」
「そのまさか。そのまさかなの。十年前、前の店にいたとき、敏男さんが最後に入れたボトル」
栓を密封するテープがぺりぺりと音を立ててはがされる。
「・・・その、いくらなんでも、もう飲めないだろう」
「大丈夫。ブランデーに賞味期限はないの。思い出と同じ」
グラスに注がれる液体は、溶けたべっ甲飴のような粘り気のある色をしていた。
「さあ」
「いや・・・それは・・・」
これだ。これだ! これに仕込んであるんだ。ほら、やつの額を見ろ。汗をかいてるじゃないか。畜生!
敏男はすでに体に毒を盛られたかのように狼狽した。顔面は蒼白になり、全身に冷たい汗をかいた。酔い潰れた先客を、彼は目の端で睨みつける。
なぜ泥酔してるのだJK! (つづく)
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