2016年2月21日(日)、科研費[文部科学省科学研究費助成事業 基盤研究(B)「気仙地域の歴史・考古・民俗学的総合研究」]主催、岩手県立博物館・陸前高田市歴史文化研究会共催の「歴史・考古・民俗学から気仙地域の魅力を語るⅡ」という名の市民向け報告会が開催されたので聞きに行ってきました。
最初の報告者は、明治大学文学部教授・石川日出志氏でテーマは「三陸に弥生遺跡が少ないのはなぜか」というものでした。映像を沢山使った報告で解りやすくとても良かったです。
弥生時代とは、弥生式土器・木製農具・農耕生活を特徴とする時代で、縄文時代晩期のBC(紀元前)300年から古墳時代までを指しているようですが。本格的な水田稲作を基盤に成立した弥生文化は、現在では、青森県弘前市砂沢(すなざわ)遺跡の調査成果などから、北部九州地方から波及した弥生文化は、予想をはるかに超える速さで本州の最北端まで到達していたということが明らかになっています。
三陸・気仙地域から松島湾一帯にかけて、縄文時代の著名な貝塚遺跡が知られていますが、今から2300年前頃(弥生時代)になると、一気に遺跡の規模が著しく小さくなり、またその数も激減します。なぜ、そのような激変が起きたのでしょうか。
1.三陸海岸は縄文時代貝塚の宝庫:気仙地域から松島湾にかけては、日本屈指の縄文時代貝塚の密集地です。気仙地域だけでも、陸前高田市の中沢浜貝塚(国史跡)、大陽台貝塚・獺(だつ・たつ)沢貝塚・堂の前貝塚・門前貝塚、大船渡市の下船渡貝塚・大洞貝塚・蛸ノ浦貝塚(以上国史跡)・長谷堂貝塚などは全国に知られた著名な貝塚です。良好に残る貝層と、その貝層で保存された骨角器が豊富に出土したことで注目されてきました。発掘調査が行われた範囲が限られているので分かりにくいものの、他地域の実例を参考にすると、いずれも直径100m内外もの範囲に竪穴住居が広がる集落です。
縄文時代の前期(約6000年ほど前)から晩期(約3000年前ころ)までの間、もちろんずっとそこに定住した訳ではありませんが、広田湾や大船渡湾を広く見渡らせる高台に常に幾つものムラが営まれていたようです。雲南遺跡では貝塚が無いもののマグロなどの魚骨が多数見つかっています。海沿いのムラはどこでも豊富な魚貝類を採り、山寄りのムラと交易して生計を立てていたと考えられます。
2.弥生時代になるとなぜ遺跡が少なくなるのか?:ところが、弥生時代になると遺跡の数が激減します。中沢浜貝塚では弥生前期(約2300年前頃)の土器も見られますが少数で、中期(2200~2000年前頃)までは続きません。下記の図の範囲では4か所でわずかに弥生土器が確認されただけです。気仙川中・上流域の横田・矢作地区では遺跡数はもっと多いものの、いずれも弥生土器はごく少数で、一時的に滞在しただけだと思われます。
この弥生時代は、日本列島各地で灌漑稲作が普及した時代で、縄文時代のような大規模な貝塚遺跡は全国的に姿を消します。東北地方でも仙台平野などでは、各所に弥生時代遺跡があって、水田跡やスキ・クワの水田工具も見つかっています。ところが、気仙地域の弥生時代遺跡を見ると、米ケ崎城跡の一面にある館貝塚も、中沢浜貝塚も、雲南遺跡も、いずれも周囲に水田耕地を造成し得る条件の低地はありません。むしろ館貝塚のようにもっぱら海をなりわいとするのにふさわしい立地の遺跡があることに注目したいと思います。
じつは北上川流域でも、弥生時代になるとそれまで各地にあった大型集落は無くなり、遺跡数も激減します。こうした現象は岩手県域一帯で起きているのです。その中で気仙地域の弥生時代遺跡で興味深いのは、弥生中期に仙台方面とよく似た土器が明瞭なことです。館貝塚の下記第2図の3、雲南遺跡の下記図8・9、長谷堂貝塚の下記第3図10~12がその実例です。
三陸海岸でも気仙地域の遺跡だけに見られるもので、他の土器は北上川流域と共通する土器です。それ以上の証拠は無いのでより積極的に主張するのは難しいですが、当地域では縄文時代以来の漁撈活動を小規模ながら継続し、仙台平野や北上川方面とも交流しながら生計を立てていたと考えられます。
そこでは、縄文時代以来の海や山合いを往来する技術・経験も生かされに違いありません。弥生時代と言うと、稲作にばかり目が向く傾向がありますが、この地域の弥生時代遺跡は小規模ですが、その立地を見るだけでも稲作以外のなりわいを知る重要な手がかりとなります。