2017年10月29日(日)、奥州市教育委員会、えさし郷土文化館(奥州市江刺区岩谷堂字小名丸102-1)
共催の「平成29年度・相沢康二館長のツキイチ講座」の第7回として「歴史ロマンあふれる平泉の旅」と
いうバスツアーが実施されました。参加者は講座受講生50名と相沢館長ほか2名の館員と運転手の54名
でした。参加費:3,000円。前日からの台風22号の影響で、終日雨降りの天気でしたが、時刻などもほぼ
工程表通りで、無事終了しました。(最後に見学した「達谷窟(たっこくのいわや)」から)
行程:えさし郷土文化館(集合・出発)9:00→白鳥舘遺跡(前沢区・車窓より見学)→長者ケ原廃寺跡
(トイレ休憩、衣川区・車窓より見学)→柳之御所資料館・柳之御所遺跡(見学・平泉町)→無量光院跡
(車窓より見学・平泉町)→平泉レストハウス(昼食・平泉町、12:30「中尊寺精進料理」を予約)→平
泉文化遺産センター(見学・平泉町)→観自在王院跡・毛越寺(車窓より見学・平泉町)→達谷窟毘沙門堂
(見学・平泉町)→道の駅「黄金花咲く理想郷」(トイレ休憩、お土産・平泉町)→えさし郷土文化館
(帰着17:00)
(上)寺務所(岩手県西磐井郡平泉町字北沢16番地)http://www.iwayabetto.com/
(上)境内から見た壱の鳥居(石の鳥居)
(上)境内から見た参之鳥居、弐之鳥居、壱之鳥居。
(上と下)弐之鳥居と参之鳥居の間。一の鳥居から入り、弐の鳥居を過ぎた右側に不動堂への直線参拝
道がある。
達谷窟(たっこくのいわや):平泉町平泉 北沢。平泉の毛越寺から西南約6㎞、名勝・厳美渓に至る
道路沿いにある岩窟。太田川の上流北岸に位置し、天台宗真鏡山西光寺(さいこうじ)広照院(本尊
大日如来)の境内にある。同寺本堂の西に平安時代後期の作で藤原基衡が寄進したと伝えられている
木造不動明王坐像(像高275.7㎝、県指定文化財)が祀られている。背後の岸壁西側に岩屋があり、岩
谷前面に接して毘沙門堂(別当西光寺)が設けられている。堂の西には平安時代後期に刻まれたと伝え
られている大磨崖仏があり、「大日如来」とされるが「阿弥陀如来」との説もある。
「吾妻鏡」文治5年(1189)9月28日条によると、源頼朝は厨川(くりやがわ・現盛岡市)から鎌倉
への帰路、「田谷窟」に立ち寄っている。同条は坂上田村麻呂・藤原利仁らの蝦夷侵攻に際し、悪路王
(阿弖流為か)・赤頭らが岩屋に要塞を構えたと記す。その後田村麻呂は岩屋の前に鞍馬寺(現京都市
左京区)を模して九間四面の精舎を建立、多聞天像を安置して西光寺と号し、水田を寄進したという。
かつては毘沙門堂に108体の多聞天像があったという(奥州葛西動乱記など)が、昭和21年(1946)の
火災などによって失われ、同36年に再建された毘沙門堂内に現在25体が残っている。西光寺は嘉祥3年
(850)慈覚大師の中興開山という(達谷村安永風土記)。なお岩屋前の道を頼朝が利用していることか
ら、これを「奥大道」とする説がある。赤木文庫本「神道集」巻10(諏訪縁起)には「達谷岩屋」とある。
磨崖仏について「吾妻鏡」前掲条は一切触れていないが、安永9年(1780)の奥州磐井郡達谷窟之図(
西光寺蔵)には境内の堂宇などとともに坐像の磨崖仏が描かれている。明治29年(1896)の地震によって
胴体部は崩落し、現在は3.6mの頭部が残るのみ。伝えによると、前九年の役後、源頼義が弓弭(ゆはず)
で彫ったものという。なお毘沙門堂・磨崖仏の前庭の発掘調査によって、池の護岸とみれれる玉石積みの
遺構3と瓦・かわらけ類・木器類など多量の遺物が出土。これらは平安時代のものと推定され、玉石積みは
中尊寺伝三重池跡の護岸と共通する技法とされる。[『日本歴史地理大系第3巻・岩手県の地名』1990年
平凡社発行より]
(上と下2つ)弁天堂:弁天様は巳年守本尊。技芸・福徳・智慧の神。「弁天には銭上げて拝め」といわ
れる金運商売の神である。仲良き男女は共に参らぬこと。悋気な天女の前で縁結びを願うと逆に縁切りに
なる。柏手を打って祈るもよし。「ヲ(お)ンウガヤジヤヤゲルベイソハ(わ)カ」と御真言を唱えるも
よし。[入場の際に頂いたパンフレットより]
金堂(こんどう):御薬師様は御神木の松で刻まれた松薬師。名の通り悩める衆生(しゅじょう)を待つ
御薬師様である。身体堅固・当病平癒・延命長寿の他、諸々の願いが成就する。「ヲンコロコロセムダリ
マトウギソハ(わ)カ」と御真言を唱えて祈るもよし。[入場のとき頂いたパンフレットより]
(上)鐘楼と閼伽堂 (あかどう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BC%E4%BC%BD [閼伽(あか):Wikipedia]