少年時代
Takを教会学校に通わせているので、私も時々礼拝に参加させていただいています。
宗教の話は、ブログではなかなか「ハラの底から」書きにくいもんですってば(^_^;)
私はこれまで礼拝に参加したのはたったの数回ですが、そのたびに泣くのです。
「このときに泣く」っていうのが決まっているわけではないのです。
まあでも、絶対に讃美歌を歌っていると、胸がつまってしまって泣きます。
今日も、初めての曲だったけれど、あまりにも美しいメロディーで、うたの内容も敬虔で神さまへの思いがこめられていて、途中で泣けて歌えなくなってしまいました。
最初は、そんな自分にびっくりしたけれど、もう馴れました(^_^;)
そのほかに、お祈りや、宣教…などのときにも、なにかがふっと琴線に触れて、どどどぉぉぉぉっっっと、涙が出てきてしまうのです。
たとえばね、牧師先生が、教会の、ご病気などで礼拝に来れない方や、受験生の方のことをひとりひとり名前を仰って、「神さまの祝福がありますように」とお祈りをするのですが、私は、全くお会いしたこともない人たちです。
それなのに、なんでこんな言葉を聞いているだけで泣けてしまうのか、全くわかりません。
宗教や、霊的なものとは関係ないかもしれませんが、心理学的な分析もしたいとも思いません。
でもでも、一方、実は私は、牧師先生の「宣教」のお話をきいていて、頭の中に、純粋に疑問が渦巻きまくるのです。できるものなら、その場で手を挙げて質問したいくらいなのです。
他方では、他のお友達からは、「座禅」についてのふっかぁ~~いお話を伺っています。
これもまた、ものすごく興味深く、「世界観」「宇宙観」について、共鳴したりしています。
そんな中で、ひとつ、感じることは、「信仰」は理屈ではない。
とてもシンプルで、「極める」とか「悟りをひらく」とか、そんなことではなくて、
ここにあるコップ袋をひょいと裏返したらそこにあるもの…ではないだろうか。
流れる水を両手に掬って飲めば、そこにあるもの…ではないのだろうか。