この前、戦争物必須教材として挙げた大西巨人の「神
聖喜劇」が、なんと漫画として発売されるらしい。
新聞にでかでか宣伝が載っていたのだが、始め見たと
きは何かの宗教のそれかと思った。
如何にものイラストがその手のものを連想させるもの
だったし、「神聖喜劇」のことだと気付くには暫く時
間を要した。
それにしても、こんなのが漫画になる時代か。
理不尽なルールに支配された軍隊の中で、強い意志と
聡明さで立ち向かう主人公は、確かに漫画向きと言え
なくも無い。
物語としても、劇的な事件がおこるし、そういう視点
からしても面白いとは言える。
しかし、この小説の面白さはそれだけではない。
むしろ、それ以外の部分がこの小説の価値を高めてい
るところだと思う。
「失われた時を求めて」に似ているというのも、正に
その点なのだ。
「失われた時を求めて」という超長編小説は、その執
拗な描写、妄想的想像力による世界の出現と消滅の経
験が、その特徴だ。
はっきり言って、物語としては面白いと言う類ではな
い。
主人公が劇的な経験をするわけでもなく、むしろ自堕
落な貴族社会で、あても無く彷徨うだけである。
その精神の軌跡を、ああでもないこうでもないと延々
綴っている。
読む側は、その世界を体験する。
ただそれだけだ。
しかし、そのことが、この小説でしか味わえない唯一
無二の世界で、この小説ならではの価値となっている。
「神聖喜劇」(全5巻)も「失われた時を求めて」と
同じような構造を持っている。
特に、派生的な世界が、唐突に挿入されるところなど
が。
「田能村竹田」に関する叙述など、それだけで「田能
村竹田」論が成立するくらいの内容である。
一見、本筋とは関係ないものが執拗に叙述されるのだ
が、これが小説世界に張り巡らされる川のような役目
となり、全体に生気を運ぶ。
「失われた時を求めて」では、マネがモデルと言われ
ている「エルスチール」と言う画家に関しての芸術論
がこれに当たる。
これがまた、読み応えのある芸術論なのだ。
他にも、音楽に関するものや、地名に関するものや、
兎に角盛り沢山なのが「失われた時を求めて」だ。
さすがは本家としか言いようがない。
本家以外で、同じような構造の小説で成功したのはこ
の「神聖喜劇」くらいのものではないだろうか。
と、言いたいところだが、広く知っているわけでもな
いのでここは訂正。
個人的体験限定の話で、「神聖喜劇」は「失われた時
を求めて」に似ている。
そして、日本の小説ベスト10にも入れたい。
こんなところでどうだろうか。
それにしても、この「神聖喜劇」を最後に長編小説体
験は途絶えている。
もう、そういうエネルギーは無いのか。