ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

免許

2007年02月10日 | Weblog
ふと思い出した。
去年、免許の更新手続きをしたが、新しい免許を貰い
に行ってないことを。
すぐさま発効日が書かれた用紙を見てみる。
げげっ、期限が二日前だ。
ということはどうなるんだ。
と自問する。
この状態で運転した場合、無免許運転とは違うな。
新しい免許は発行され、警察署にあるわけで、単に手
元に無いだけのことだ。
つまり、不携帯ということなのではないか。
確か、罰金は無く注意だけだと思ったがどうなんだろ
う。

警察署に車で行き、期限切れの免許書を提出した時点
で「今日はまさか車で来たんではないでしょうね」と
訊かれる可能性はある。
「いや、歩いてきました」と嘘をついて、「ああ、そ
れなら問題ありません」で済めば問題なし。
しかし「嘘はいけませんぜ、旦那」ときたらどうする
か。
「駐車場に車で来たのを、こちとらちゃんと目撃して
るんですぜ」と更に追い討ちをかけ「なんなら、証拠
の監視ビデオでも見ますか」と切り札を出されたら万
事休す。
「す、すいません、私が悪るうございました」となる
のが落ちだ。

ここで、姑息な手段を思いついた。
警察署の手前、数百メートルのところに車を止め、そ
こから歩いていけば良いのではないか。
何食わぬ顔で貰って「いやあ、久しぶりに歩いたら結
構気持ち良いですね」などと会話して、止めてた車で
帰る。
しかしこの場合、理想的な落ちとして、駐車禁止違反
で罰金を取られるというのが考えられる。
「これだったら最初から歩いていけばよかった」など
と、自分の不運を呪いながら歩いている後姿が思い浮
かぶ。
うーん、哀れな姿だ。

そんな、いろんなシミュレーションを考えて楽しんで
ないでさっさと行ってこいという話だが、丁度連休に
入ってしまったので、もう暫く不携帯の状態が続く。
大体が、発行時期が遅すぎるのでこんな忘却の事態に
なったのだ、と警察の手続きに関して文句を言いなが
ら、自転車で行こうかと考えてる自分がいる。
コメント

日本映画

2007年02月09日 | 映画


この前、久しぶりに最近の日本映画を見たと「カミュ
なんか知らない」を取り上げたが、考えてみたら他に
もあった。
何故、記憶からすっぽり抜けたかというと、殆ど印象
に残っていなかったからだ。
その映画は「男たちの大和」と「ローレライ」という、
何ともどう表現すれば良いのか、といった類の作品だ。
それにも拘らず見たのは、一応戦争映画だったからだ。

「父親達の星条旗」「硫黄島からの手紙」と、去年の
暮れから戦争付いていて、最近の日本映画ではどう描
かれているのかという興味がわき見る気になったのだ。
どうせ、勇ましく美しくドラマ仕立ての美化した映画
だろうと、思いっきり先入観を持ってみたのは言うま
でも無い。
「人間魚雷回天」とか「ああ予科練」と戦後間もなく
は、自分を犠牲にして死んでいった兵士を鎮魂する気
分が強かったのだろう、彼らを主人公にした人間ドラ
マ的戦争映画が多かった。
つまり、太平洋戦争そのものの実態を描こうなどとい
う、客観的視点を持つほどの余裕はまだ無かったのだ。
暫くすると、極端な徹底批判や、賛美とどちらかに偏
ったと思われる戦争映画が作られるようになり、なか
なかバランスの取れた、しかも映画として成立ってい
るというものは見つけられなかった。
アメリカでも同じようなもので、いまだに「ウィンド
トーカー」とか「パールハーバー」とかに見られるよ
うに、太平洋戦争ものではひどいものが多い。
嘗ての三船敏郎リーマーヴィンの「太平洋の地獄」の
ような、ちゃんとできている作品が全く生きてない状
況だ。
そんな中で、やっとまともなのがイーストウッドによ
って作られたのだが、それは同時に、日本で何故作れ
なかったのか、という不満を感じさせる出来事でもあ
った。

前置きが長くなったが、そんな状況での先に挙げた映
画、どうだったかというと、思ったほど賛美は感じな
かったが、それ以前に映画として全く面白さを感じな
いというか、作った動機を知りたい、とまあ戦争映画
として価値を見つけられない、はっきり言って制作費
がもったいないな、というものだった。
これだったら「ムルデカ」という、インドネシア独立
運動に加担した旧日本兵の話のほうが、歴史的な事実
を知る上でも価値があったし、お金はそれ程かかって
ないが「男たちの大和」よりは戦争映画として見られ
た。
日本の戦争映画、ちょっとレベル低すぎではないか。
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いわし

2007年02月08日 | 食べ物


田舎で魚料理を頼むときには、リスクが伴うので頼ま
ないなどと言っときながら、自ら頼んでしまった。
本当、文章にすると、さも尤もらしく、常に実践して
いるかのごとく聞こえるが、実際はかなり適当で、都
合の悪いことは削除して良いことしか書かないから、
ブログは油断なら無い(自分のことだが)。

「フォルマッジョ」(本格ナポリピザが食べられる唯
一のところ)に行ったら、「鰯のフリット」なるメニュ
ーがあったのだ。
「鰯か」
「鮮度を保つのが特に難しい魚だし」
「どうなんだろう」
と頭の中で問答し、結局頼んでしまった。
からっと揚がった、小ぶりの鰯が5匹ほど。
タイムが入った、岩塩をつけて食べるようになってい
る。
恐る恐る一匹食べる。
やけどしそうに熱い。
当然骨ごと食べられる。
鮮度は悪くない。
勿論、非常に良いという状態は望むべくも無いが、問
題ないレベルだ。
立て続けに、他の鰯も口に放り込む。
小鯵とかもそうだが、雑魚的魚はやはり美味しい。
鮮度さえ良ければ、マグロや、鰤なんかより断然食し
たい魚だ。
こういうのは、流通網が発達した今でも、海の近くな
らでは、という類のものだろう。

鰯の後には、ピザ。
今回、好きなものでハーフアンドハーフでどうですか、
というシェフの奨めに応じて、スパイシーミートとプロ
シュートのピザを頼んだ。
スパイシーミートなどというと、如何にも宅配系にあり
そうなものだが、そこは一工夫というか、ガラムマサ
ラで味付けしたひき肉で、宅配系とは一味違っている。
黒オリーブとかピクルスも散らしているから、そんな
小道具でも宅配系との味の違いは明らか。
とここで宅配系という言葉を三度使っているが、別に
宅配系に恨があるわけではない。
もう半分には、プロシュートと温泉卵。
最近、温泉卵はちょっとした流行のような気がするが、
プロシュートの塩味を和らげるためのものと思えば納
得する。
個人的には、無くても良い。

その後自家製のカモミールを飲みながら、いつものよ
うにかかってるジャズを聴き(分かったところではコ
ルトレーンとビルエバンス)、読みかけの「ロシュフー
コーの箴言集」を読む。
出だしに戻るが、文だけ読むと、お前は片岡義男(古
い?)か、というような尤もらしい世界だ。
用心用心。
コメント

カミユなんて知らない

2007年02月06日 | 映画


新しめの日本映画は、かなり久しぶりだ。
「カミユなんて知らない」というのは、その映画のタイ
トルで、監督が柳町光男という、もう中堅を通り越し
てベテランと言っても良い、かつて「火まつり」や「1
9歳の地図」などを撮った人だ。
正直、まだ撮ってたんだ、と意外な印象を受けた。
とうに、引退、というより映画界から消えていたのだ
と思っていた。
そしたら、この映画2005年だという。
危うく、「カミユなんて知らない」は知らない、とな
るところだった。

舞台は大学。
明らかに立教の構内だが、勿論違う名前の大学。
そこの学生グループの映画作りの過程を、青春群像的
に描いていく。
映画学科的な雰囲気があるから、池袋の「立教」と西
武線で池袋から三つ目の江古田の「日大芸術学部」を
足して二で割ったような大学だ、などと全く関係ない
ことを考えながら見ていた。
大学が舞台の映画と言うのは、今まで数多くあったが
これだ、というのは思い出せない。
真っ先に浮かんだのが「イチゴ白書」と「日本の夜と
霧」だ。
古すぎる。
この映画のどこか見たことあるよう懐かしさも、それ
らの映画となにかしら共通する部分があるのか。

タイトルのカミユは、勿論あの「異邦人」のカミユの
ことだが、主人公の不条理殺人が、彼らの映画作りの
テーマになってるらしく、ある年代以降だと「カミユ」
という作家の名前すら知らないと言う事実を示すため
に、つまり今時の学生の文学体験の貧困さを表したく
こんなタイトルにしたのかもしれない。
笑ったのは、彼らを指導する教授。
嘗ては自ら映画を撮っていたのだが、今は理由(挫折
のようなもの)があり撮っていない。
その彼が、ある美少女に惹かれ、老醜を省みずアプロ
ーチするのだが、そこが見もの。
完全に「ベニスに死す」のパロディーで、ダーク.ボ
ガード演ずる「エッシェン.バック」だか「オッフェン.
バック」だか「アッシェン.バッハ」だか、兎に角そ
ういう名前の文学者が、若く見せようと白粉を塗り、
白いスーツを着て出かけるところをそっくり真似てい
るのだ。
おまけにその時かかる「マーラー」も同じだ。
ちょっとした悲劇なのだが、出典を知っていると笑え
る。
しかし、知らないと全く惨めなシーンとなる。
所謂、楽屋落ち的シーンだ。

全体に、ある世代以上だとそれなりに楽しめるのだが、
「カミユなんて知らない」世代は、一体どう受け止め
るのか。
その辺は興味がある。
今だったら「海辺のカフカ」は知っている、ってとこ
ろだろうが。
コメント

エイ

2007年02月05日 | 食べ物


前々から気になっていた「クリヨ-ド.ヴァン」の、
「エイヒレの焦がしバターソース」、とうとう食べる
機会が到来した。
と言っても、自分で食べるわけではなく、他人に食べ
させて様子を見ると言う、何とも卑怯な方法を取るわ
けだが。
以前だったら、取り敢えず自分で試みるという態度で
臨んでいたのだが、最近はすっかり姑息になり、他人
で試して良かったら、というパターンになっている。

例えば、扱ってる素材に全く疑問が無いような店でだ
ったら、新しいメニューがあれば、躊躇無く頼む。
しかし、田舎の場合、特に魚類は、往々にして大きなリ
スクを伴う。
ちょっとした賭けになるのだ。
お気に入りのここ「クリヨード.ヴァン」も例外では
ない。
過去の失敗があっての自分なりの対処法が、今回のよ
うな姑息な手段なのだ。
他人から卑怯と言われようが、自爆するよりは良い。

で、いよいよ「エイヒレ」の登場となる。
過去に何度か、フランス料理では食べている。
主に「エイのムニエル」でだが、肉と肉の間の繊維質が
ゼラチン質で、それが肉にしっとりした感触を与え、
かなり旨いというか好きな魚だ。
但し、新鮮であれば、と言う絶対条件付。
結構時間がかかって登場の「エイ」、見た目では全く
判断が付かない。
香りを嗅がせてもらう(みっともないのは承知)。
別に、いやな匂いはしない。
頼んだ本人は、ばくばく食べている。
そこで、ちょっと味見(みっともないのは承知)。
特別、古いということもなく、食べられるレベルだ。
つまり、非常に新鮮と言うことも無く、古いでもなく
問題は無いということだ。
しかし、エイの味そのものはと聞かれれば、そんなに
旨いエイではないと答える。
つまり、冷凍物で、水っぽくついでに旨味も抜けてい
るエイということなのだ。
しかし、生の臭いやつよりは、冷凍の臭くないものの
方が良いに決まっている。
最悪は、冷凍物の臭いやつ。
つまり、食べられるだけで良しとするのが、田舎での
現実的対処法ということになるのだ。
コメント

ハモンイベリコ

2007年02月04日 | 食べ物


今ひとつ美味しいと思ったことが無い生ハム、今回ま
たまた貰い物で「ハモンイベリコ」を得て、食す機会
が再び回って来た。
よく「とろけるような甘みがあり、しょっぱくもなく
今までの生ハムとは明らかに違う」などと言われてい
る「ハモンイベリコ」、前回食べたのは全くそんなそ
ぶりも無く、「どこが?」というものだった。
根本的に、生ハム体質ではないのか、とそのときは思っ
たくらいだ。
或いは、本当の上質なものを食べてない故とか、いろ
いろ考えた。
そんな状況で、今回、この機会を迎えたのだ。

もう少し詳しく言うと、「ハモンイベリコ」の前に、一
緒に貰った(つまり2種類貰ったのだ)「生ハム切り
落とし」というのを食べている。
こちらは日本製で、多分本格的製法ではなく(自然乾
燥、熟成ではない)、よくスーパーなんかで売っている、
大手メーカーの生ハムと同じようなものだった。
つまり、食べやすく、しかも旨味調味料添加で旨味が
いやにあるという、有り勝ちの「日本的生ハム」と
いうやつだ。
調整してあるので不味くは無いが、不自然な味が今ひ
とつ納得できない。
それが終わって、いよいよ「ハモンイベリコ」の登場
と相成るわけだ。

まず、香りを嗅ぐ。
しかし、事故以来右の鼻が詰まり気味で、しかも風邪っ
ぽく左の鼻まで詰まり気味ときている。
よく判らない。
そんな中でも、パルマ産の生ハムとはちょっと違うか
な、と微かに感じるような、感じないような。
見た目では、全然判らないなと思っていたが、脂の部
分が室温で溶けかかってきた。
おっ、これが噂の脂が舌でとろけるという、融点の低
さの証明か。
観察はそこまでにして、早速食べてみる。
あまりしょっぱくない。
それに、パルマ産に見られるような独特な臭みも感じ
ない。
そういう臭みが香ばしさに変わっている。
しかも、甘みも感じる。

というわけで今回初めて、「ハモンイベリコ」の実力の
一端を知ることとなった。
最上級の「ベジョーダ」に対する幻想は、どうやらもっ
ても良さそうだ。
コメント

襖絵

2007年02月03日 | 芸術


「美の壺」と言うテレビ番組で、襖絵の制作風景を流
していた。
金箔を、ランダムに散らす手法で、江戸時代からの伝
統的なものだという。
金箔も全体に散らすわけではなく、上半分以上は余白
と言う所謂日本的な「余白の美」を感じさせる仕上が
りのもので、普段の生活の中に美を取り込むという、
嘗ての日本人がそうだったと言われている、美意識と
寄り添う生活様式を充分に感じさせる、襖絵であった。

当時の浮世絵なんか見ても感じるが、デザインセンス
のモダンさ。
幾何学模様など、今でも全然古びてない。
江戸時代だけ、例外的にセンスが開花したのか、と思
えるような特異な豊かさを感じる。
今現在、それらが生きているのかと疑問に思うから、
その特異さが余計に際立つ。

たとえば今回の襖絵を見たときは、これは「ジャクソ
ンポロック」だなと思った。
絵の具を滴り散したり、ランダムに塗る手法は、正に
金箔を散らすそれだった。
仕上がりも、似ている。
コンテンポラリーアートを先取りしていた襖絵。
日本の美を知らな過ぎることを今回も感じた。
それにしても、200年以上前にすでにコンテンポラ
リーアートが日本にあったとは。
幾何学模様は「モンドリアン」を先取りだし、伝統の
中に先鋭性が潜む、「日本的美」の世界は、是非とも
誰かさんの「美しい日本」に登録してもらいたいもの
だと、つくづく思った。

コメント

神聖喜劇

2007年02月02日 | 芸術


この前、戦争物必須教材として挙げた大西巨人の「神
聖喜劇」が、なんと漫画として発売されるらしい。
新聞にでかでか宣伝が載っていたのだが、始め見たと
きは何かの宗教のそれかと思った。
如何にものイラストがその手のものを連想させるもの
だったし、「神聖喜劇」のことだと気付くには暫く時
間を要した。
それにしても、こんなのが漫画になる時代か。

理不尽なルールに支配された軍隊の中で、強い意志と
聡明さで立ち向かう主人公は、確かに漫画向きと言え
なくも無い。
物語としても、劇的な事件がおこるし、そういう視点
からしても面白いとは言える。
しかし、この小説の面白さはそれだけではない。
むしろ、それ以外の部分がこの小説の価値を高めてい
るところだと思う。
「失われた時を求めて」に似ているというのも、正に
その点なのだ。

「失われた時を求めて」という超長編小説は、その執
拗な描写、妄想的想像力による世界の出現と消滅の経
験が、その特徴だ。
はっきり言って、物語としては面白いと言う類ではな
い。
主人公が劇的な経験をするわけでもなく、むしろ自堕
落な貴族社会で、あても無く彷徨うだけである。
その精神の軌跡を、ああでもないこうでもないと延々
綴っている。
読む側は、その世界を体験する。
ただそれだけだ。
しかし、そのことが、この小説でしか味わえない唯一
無二の世界で、この小説ならではの価値となっている。

「神聖喜劇」(全5巻)も「失われた時を求めて」と
同じような構造を持っている。
特に、派生的な世界が、唐突に挿入されるところなど
が。
「田能村竹田」に関する叙述など、それだけで「田能
村竹田」論が成立するくらいの内容である。
一見、本筋とは関係ないものが執拗に叙述されるのだ
が、これが小説世界に張り巡らされる川のような役目
となり、全体に生気を運ぶ。
「失われた時を求めて」では、マネがモデルと言われ
ている「エルスチール」と言う画家に関しての芸術論
がこれに当たる。
これがまた、読み応えのある芸術論なのだ。
他にも、音楽に関するものや、地名に関するものや、
兎に角盛り沢山なのが「失われた時を求めて」だ。
さすがは本家としか言いようがない。

本家以外で、同じような構造の小説で成功したのはこ
の「神聖喜劇」くらいのものではないだろうか。
と、言いたいところだが、広く知っているわけでもな
いのでここは訂正。
個人的体験限定の話で、「神聖喜劇」は「失われた時
を求めて」に似ている。
そして、日本の小説ベスト10にも入れたい。
こんなところでどうだろうか。
それにしても、この「神聖喜劇」を最後に長編小説体
験は途絶えている。
もう、そういうエネルギーは無いのか。

コメント

殺しの烙印

2007年02月01日 | 映画


鈴木清順の「殺しの烙印」というDVDを見る。
独特の美意識が画面に充溢しているかれの映画は、か
なり魅力的なのだが、この白黒映画は、見落としてい
た。
宍戸錠主演の、殺し屋の物語だ。
印象からすると、ゴダールの「勝手にしやがれ」とメル
ビルのフィルムノワールものを足して2で割った感じだ。
そのまま、当時のフランス映画に置き換えても違和感が
無いくらい、才気ばしった(良い意味で)、洒落た映画
になっている。
当然のこと、本当らしいと言う意味のリアリティーは無
いが、他の小林旭もののような「嘘っぽさ」とは無縁の、
緊張感のある、映画としてはちゃんと成立っているもの
だ。
こんな映画を撮った、当時の鈴木清順の立場と言うもの
を想像すると、何だか可笑しい。
どう考えても、異端だ。
それと、こんな映画も撮れてしまえた、当時の映画界の
懐の深さ、寛容さにも感心する。
「変な映画」と言う烙印を押されるのは間違いない、の
だから。

それより実は、映画の始めのなんていうのか「タイト
ルロール」で良いのか?そこに見覚えのある名前を発
見したのだ。
製作者、所謂プロデューサーに「岩井金男」の名前が。
何を隠そう(結局隠してないが)、この岩井さんとは過
去に面識があったのだ。
面識があったというと、只知っていると言う程度なのだ
が、実際はそれ以上で、一緒に何度もマージャンをやっ
た間柄だ。
当時すでに引退していた岩井さんは、悠々自適の生活で
暇も一杯あった。
ある喫茶店の常連で、こちらもそこでバイトしていて、
何となく話が合いマージャンをやるようになったのだ。
年は親子以上に離れていたのだが、非常に話しやすく、
マージャンをやりながら冗談を飛ばし楽しく過ごした
ものだった。
はっきり言ってマージャンのテクニックはひどかったの
だが、負けない。
つまり勝負事においての、テクニック以上の何かを持っ
た人で、修羅場をくぐった勝負師とはこういう人のこ
とを言うのか、と周りの人間は納得したものだった。
たまに話の中に「渡が」とか「赤木圭一郎は」とか出
てきたが、こちらはそういう映画界の話をあまり聞こ
うともしなかった。
多分、そんな点も向こうからすると良かったのかもし
れない。
そう言えば、鈴木清順に関しては一度「いつも変な映画
ばかり撮って困るよ」などと言ったことがある。
今回の映画が、まさしくそれに当たるわけだ。
困るよと言った割には、しっかり製作者なんだから、
太っ腹な人だ。

たまに、どうしてるかと思うことがあるが(多分没し
てるだろうが)、こんなところで目にするとは、何だ
か無性に会いたくなった。
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