死ぬ瞬間 死とその過程について, E.キューブラー・ロス (訳)鈴木晶, 中公文庫 キ-5-1, 2001年
(ON DEATH AND DYING, Elisabeth Kubler-Ross,1969)
・"死" を間近に控えた主にガン患者へのインタビューと、そこから得られた知見について。それまで病院においても忌避とされてきた "死" に対して正面から向きあうことで話題となり、後には終末医療に関わる者にとっての "聖書" とまで呼ばれるようになった本。自身、各種の本を読んでいて、「一番頻度が高いのではないか」と思われるほどあちこちで引用されているのを見かけ、ずっと気になっていた本だったが、購入から3年以上経ってようやく陽の目を見ることに。しかし、直後にその内容が骨身に沁みる状況に陥ろうとは、本書を手に取った時には夢にも思わなかった。なんというタイミング。なんという偶然。
・このような本を読んだからといって、死への恐怖が拭われるかというと……とてもムリムリ。
・「私はこれまで二年半にわたって瀕死患者と関わってきた。この本はその経験の初期のころについて語ることになる。この経験は、それに関わったすべての人にとって有意義で、教えられるところの多いものだった。この本は、瀕死患者をどう扱うかという教科書として書かれたものではないし、瀕死患者の心理の包括的な研究を目指したものでもない。この本はたんに、患者を一人の人間として見直し、彼らを会話へと誘い、病院における患者管理の長所と欠点を彼らから学ぶという、刺激にみちた新奇な経験の記録にすぎない。」p.6
・「危険から守られることを祈るのではなく、
恐れることなく危険に立ち向かうような人間になれますように。
痛みが鎮まることを祈るのではなく、
痛みに打ち勝つ心を乞うような人間になれますように。
人生という戦場における盟友を求めるのではなく、
ひたすら自分の力を求めるような人間になれますように。
恐怖におののきながら救われることばかりを渇望するのではなく、
ただ自由を勝ち取るための忍耐を望むような人間になれますように。
成功のなかにのみ、あなたの慈愛を感じるような卑怯者ではなく、
自分が失敗したときに、あなたの手に握られていることを感じるような、そんな人間になれますように。
ルビンドラナート・タゴール 『果実採り』より」p.13
・「過去を振り返り、昔の文化や人間を研究してみて驚くのは、死はこれまで人間にとってつねに忌むべきことであり、今後もつねにそうでありつづけるだろうということである。精神科医の立場からすると、それはよく理解できる。そのような考え方がどこから生まれるかといえば、私たちは無意識のうちに「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」という基本認識をもっているからだ。」p.15
・「私たちは種々の束縛からかなり解放され、科学や人間についての知識を得たおかげで、自分自身も家族も、よりよい方法、手段で死の準備ができるようになったかもしれない。しかし、反面、人が自分の家で安らかに尊厳をもって死ぬことができる時代は過去のものとなった。 科学が発達すればするほど、私たちはますます死の現実を恐れ、認めようとしなくなる。それはなぜなのか。」p.22
・「たぶんこういう質問が出るはずだ――「私たちは人間性を失ったのだろうか、それとも、人間性を増したのだろうか?」本書でその審判を下すつもりはないが、答えがそのどちらにせよ、患者の苦痛、それも肉体的苦痛ではなく感情的苦痛がより大きくなったことは確かである。患者の要求は何世紀も前から変わっていない。変わったのは、それを満たす私たちの能力のほうである。」p.26
・「矛盾するように聞こえるかもしれないが、社会が死を否認する方向にすすんだのにたいし、宗教は、死後の生、すなわち不死を信じる人びとを多く失い、その意味で死を認める方向へとすすんだのである。」p.34
・「絶望し苦悩している患者を見ただけで逃げだしたりせず、みんなが協力すれば、そうした失われた機能の多くは活用できるのだ。私が言いたいのは、患者を機械に縛って植物状態にしておくのではなく、彼が人間らしく生きる手助けをすることによって、人間らしく死ぬ手助けができるということである。」p.42
・「経験から、討論がじつに多くの目的に役立つことがわかった。なかでも、死を他人事と考えるのではなく、じぶんにも現実に起こりうるものとみなさなくてはいけないのだということを、学生たちに気づかせるうえで大いに役立った。さらに、討論が死に対するアレルギーを軽減するための有意義な方法であることもわかった。しかしこれは長くて苦しい過程である。」p.50
・「どれだけ生きられるかはだれにもわからないと率直に言うべきだ。あと何か月とか何年とか具体的な数字を示すのは最悪の対応で、どんなに精神的に強い患者に対しても行うべきではない。」p.55
・「自分はいつでも死ぬ覚悟ができていると公言する者も含めて、患者ならだれでも希望を捨てない。私たちのインタビューで明らかになったことは、すべての患者がもっと生きられるという可能性を信じていたことだ。どんなときでも、もう生きる望みはない、という者は一人もいなかった。 どのように告知されたかと患者に質問してわかったことは、はっきりつげられたかどうかにかかわらず、自分が致命的な病気であることを患者全員が知っていたということである。」p.56
・「したがって以上を要約すれば、問題は「患者に告げるべきか」ではなく、「患者にどう告げるべきか」でなければならない。」p.64
・「私たちは死に瀕している患者に百人以上にインタビューをしたが、ほとんどの人は不治の病であることを知ったとき、はじめは「いや、私のことじゃない。そんなことがあるはずがない」と思ったという。」p.68
・「結局、死に対する自分自身の強迫観念にきちんと対応してきたセラピストだけが、患者が迫りくる死に対する不安と恐怖を克服するのを粘り強く愛情をもって助けるという役目を果たすことができるのだ。」p.81
・「このような状況に置かれたときにいちばん惨めなのは、金持ち、成功をおさめた人、支配欲のつよいVIPだろう。自分の人生を快適にしてくれていたものを失ってしまったからだ。私たちは死ぬときにはみな同じなのだが、O氏のような人はそれを認めることができない。最後までそれと戦い、死を人生の最終結果として謙虚に受けとめるチャンスを逃してしまう。彼らは拒絶と怒りを爆発させるが、それによってだれよりも絶望的になってしまうのだ。」p.97
・「患者 個人レベルの話をしているのではありません。とにかく看護婦たちに、痛みに対する理解がないのです。
医師 痛みの問題があなたにとって、いちばんのもんだいなのですね。
患者 そうですね、私が知っているガン患者にとってはそれ以上の問題はありませんでした。」p.112
・「健康であれば、人を必要とすることもありません。怖いのは一人で死ぬことではなく、拷問のような痛みなのです。髪の毛を引きむしりたくなるほどの痛みです。あまりにおっくうで何日もお風呂にもはいらなくても平気なことがありますよね。そんなふうに、だんだん人間らしさを失うような気がするんです。」p.119
・「つまり、私は本当の宗教をもっていなかったんです。他人の信仰を語っていたにすぎなかったのですね。」p.123
・「だって、人はいつ牧師を必要とすると思いますか。夜だけですよ。夜こそ人はひとりぼっちで苦しみに立ち向かい、闘わなければならないんです。そういうときにこそ牧師さんに来てもらいたいのです。たいていは、夜の十二時ごろから、そうですね……。」p.179
・「前述したように、患者たちは、黙って話を聞いてくれる人がそばにいて、怒りを吐き出し、行く末の悲しみに泣き、恐怖や幻想を語るように促されると、すんなりと死を受容するものである。私たちは、患者がこの受容の段階に到達するまでにどれほどの試練を要し、やがて双方向のコミュニケーションが成立しなくなる「エネルギー喪失(デカテクシス)」にいたるかを認識しておくべきである。」p.202
・「死について語るのを避けることは患者にとってより有害であると私は確信している。時間を割き、時を見計らって患者の傍に座り、話を聞いてあげたり気持ちを分かち合ったりすることのほうが、患者にとってずっと助けになる。」p.238
・「この本を読んだ末期患者の家族や病院関係者が、死に臨む患者の暗黙の訴えかけにもっと敏感になれば、それだけでこの本は役割を十分に果たしたといえるだろう。」p.238
・「患者の死後、家族に対して神の愛を語ることは残酷だし不適当である。家族のだれかを失ったとき、とくに覚悟する時間がほとんどなかった場合、人は怒り、絶望する。このような感情は表に出させてやらなかればならない。」p.289
・「読者にお伝えすることができないのは、こうした会話の中で当事者たちが実際に経験する部分だ。そこには、患者と医師、医師と牧師あるいは患者と牧師、それぞれの間に流れていく、言葉によらない会話が数多くある。ため息、うるんだ目、微笑み、手の動き、うつろな目、大きく見開いた目、伸ばされた両手……どれもこれも言葉以上にその気持ちを伝えてくれるものである。」p.297
・「医師 医者が余命を教えるなんてできないことは、ご存知ですよね。医者にだってわかりませんしね……確かに、患者のためを思ったつもりで、だいたいのことを言ってくれる医者もいるかもしれませんが、それを聞いたためにひどく落ち込んで、それからは一日として楽しく生きられないという患者もいるんですよ。」p.321
・「医師 残念なことを伝えるには、冷淡でつきはなした態度をとるしかないこともあるんです。
母親 それもそうですが。お医者さんはこういうことで感情的になっていられないし、感情的になるべきではないのかもしれません。それでも、言い方ってものがあるような気がします。」p.342
・「牧師 でも頼られるばかりではなくて、あなた自身が悩みを打ちあけたり、慰めてもらえるような相手はほしくないのだろうか、ってときどき思うんですが。
患者 慰めが必要だなんて思いませんわ、牧師さん。それに同情なんて、まっぴらごめんです。同情されるべきだなんて、思っていないのですから。私にはこぼすようなつらいことは、何もなかったという気がします。」p.390
・「このミーティングで、彼女たちは、末期患者の看護がいやでたまらないと口々に言った。目の前で死なれると、患者が看護婦たちに面当てをしているように思えるので、そうした腹立たしさも入り混じっていた。 なぜこのような気持ちになるのか、この看護婦たちは理解するようになっていった。そして今では、末期患者を苦痛にあえぐ人間として扱い、同室のさほど重体ではない患者に対する以上に行き届いた看護ができている。」p.412
・「私が言わんとすることは、動機や理由は異なっていても、セミナーに対する患者の反応はすべて積極的であった、ということである。」p.424
・「患者たちから学んだことを簡潔にまとめてみると、私から見ていちばん印象的なのは、自分の病気について知らされているいないにかかわらず、患者はみな病気が重いと気づいていたことである。しかし必ずしもそれを医師や家族に話すわけではない。」p.428
・「このセミナーでもっとも驚くべき点は、死そのものについてほとんど話さなかったことだろうと、ある学生が論文に書いている。死は死にいたる過程が終わる瞬間にすぎない、と言ったのはモンテーニュではなかったか。患者にとって死そのものは問題ではなく、死ぬことを恐れるのは、それに伴う絶望感や無力感、孤独感のためであるということがわかった。」p.435
・「これまで述べてきたことからわかるように、末期患者には非常に特別な要求がある。それは、私たちが座って耳を傾け、それが何なのかをはっきりさせれば満たされる。おそらくもっとも重要なのは、こちらにはいつでも患者の不安を聞く用意があると伝えることだろう。死を迎える患者と向き合うには、経験からしか生まれないある種の成熟が要求される。不安のない落ち着いた心で末期患者の傍らに座るためには、死と死の過程に対する自らの姿勢をよく考えなくてはならない。」p.438
・「私たちはつねづね、末期患者だけの集団療法が必要ではないだろうかと思っている。患者たちは寂しさや孤独感を共有していることが多いからだ。病院で末期患者に接する仕事をする人びとは、患者同士が相互に影響を与え合っていること、重篤患者同士の会話の中には互いにとって助言となることが多く含まれていることにはっきりと気づいている。」p.444
・「「言葉をこえる沈黙」の中で臨死患者を看取るだけの強さと愛情をもった人は、死の瞬間とは恐ろしいものでも苦痛に満ちたものでもなく、身体機能の穏やかな停止であることがわかるだろう。人間の穏やかな死は、流れ星を思わせる。広大な空に瞬く百万もの光の中のひとつが、一瞬明るく輝いたかと思うと無限の夜空に消えていく。」p.448
・訳者あとがきより「原書のタイトルを直訳すれば、『死とその過程について』となる。死とは長い過程であって特定の瞬間ではない、というのが著者の基本主張である。しかし『死ぬ瞬間』という邦題はすでに人口に膾炙しており、変更は混乱を招くことになると判断し、原題は副題として掲げることにして、タイトルそのものは旧邦題を踏襲した。」p.450
(ON DEATH AND DYING, Elisabeth Kubler-Ross,1969)
・"死" を間近に控えた主にガン患者へのインタビューと、そこから得られた知見について。それまで病院においても忌避とされてきた "死" に対して正面から向きあうことで話題となり、後には終末医療に関わる者にとっての "聖書" とまで呼ばれるようになった本。自身、各種の本を読んでいて、「一番頻度が高いのではないか」と思われるほどあちこちで引用されているのを見かけ、ずっと気になっていた本だったが、購入から3年以上経ってようやく陽の目を見ることに。しかし、直後にその内容が骨身に沁みる状況に陥ろうとは、本書を手に取った時には夢にも思わなかった。なんというタイミング。なんという偶然。
・このような本を読んだからといって、死への恐怖が拭われるかというと……とてもムリムリ。
・「私はこれまで二年半にわたって瀕死患者と関わってきた。この本はその経験の初期のころについて語ることになる。この経験は、それに関わったすべての人にとって有意義で、教えられるところの多いものだった。この本は、瀕死患者をどう扱うかという教科書として書かれたものではないし、瀕死患者の心理の包括的な研究を目指したものでもない。この本はたんに、患者を一人の人間として見直し、彼らを会話へと誘い、病院における患者管理の長所と欠点を彼らから学ぶという、刺激にみちた新奇な経験の記録にすぎない。」p.6
・「危険から守られることを祈るのではなく、
恐れることなく危険に立ち向かうような人間になれますように。
痛みが鎮まることを祈るのではなく、
痛みに打ち勝つ心を乞うような人間になれますように。
人生という戦場における盟友を求めるのではなく、
ひたすら自分の力を求めるような人間になれますように。
恐怖におののきながら救われることばかりを渇望するのではなく、
ただ自由を勝ち取るための忍耐を望むような人間になれますように。
成功のなかにのみ、あなたの慈愛を感じるような卑怯者ではなく、
自分が失敗したときに、あなたの手に握られていることを感じるような、そんな人間になれますように。
ルビンドラナート・タゴール 『果実採り』より」p.13
・「過去を振り返り、昔の文化や人間を研究してみて驚くのは、死はこれまで人間にとってつねに忌むべきことであり、今後もつねにそうでありつづけるだろうということである。精神科医の立場からすると、それはよく理解できる。そのような考え方がどこから生まれるかといえば、私たちは無意識のうちに「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」という基本認識をもっているからだ。」p.15
・「私たちは種々の束縛からかなり解放され、科学や人間についての知識を得たおかげで、自分自身も家族も、よりよい方法、手段で死の準備ができるようになったかもしれない。しかし、反面、人が自分の家で安らかに尊厳をもって死ぬことができる時代は過去のものとなった。 科学が発達すればするほど、私たちはますます死の現実を恐れ、認めようとしなくなる。それはなぜなのか。」p.22
・「たぶんこういう質問が出るはずだ――「私たちは人間性を失ったのだろうか、それとも、人間性を増したのだろうか?」本書でその審判を下すつもりはないが、答えがそのどちらにせよ、患者の苦痛、それも肉体的苦痛ではなく感情的苦痛がより大きくなったことは確かである。患者の要求は何世紀も前から変わっていない。変わったのは、それを満たす私たちの能力のほうである。」p.26
・「矛盾するように聞こえるかもしれないが、社会が死を否認する方向にすすんだのにたいし、宗教は、死後の生、すなわち不死を信じる人びとを多く失い、その意味で死を認める方向へとすすんだのである。」p.34
・「絶望し苦悩している患者を見ただけで逃げだしたりせず、みんなが協力すれば、そうした失われた機能の多くは活用できるのだ。私が言いたいのは、患者を機械に縛って植物状態にしておくのではなく、彼が人間らしく生きる手助けをすることによって、人間らしく死ぬ手助けができるということである。」p.42
・「経験から、討論がじつに多くの目的に役立つことがわかった。なかでも、死を他人事と考えるのではなく、じぶんにも現実に起こりうるものとみなさなくてはいけないのだということを、学生たちに気づかせるうえで大いに役立った。さらに、討論が死に対するアレルギーを軽減するための有意義な方法であることもわかった。しかしこれは長くて苦しい過程である。」p.50
・「どれだけ生きられるかはだれにもわからないと率直に言うべきだ。あと何か月とか何年とか具体的な数字を示すのは最悪の対応で、どんなに精神的に強い患者に対しても行うべきではない。」p.55
・「自分はいつでも死ぬ覚悟ができていると公言する者も含めて、患者ならだれでも希望を捨てない。私たちのインタビューで明らかになったことは、すべての患者がもっと生きられるという可能性を信じていたことだ。どんなときでも、もう生きる望みはない、という者は一人もいなかった。 どのように告知されたかと患者に質問してわかったことは、はっきりつげられたかどうかにかかわらず、自分が致命的な病気であることを患者全員が知っていたということである。」p.56
・「したがって以上を要約すれば、問題は「患者に告げるべきか」ではなく、「患者にどう告げるべきか」でなければならない。」p.64
・「私たちは死に瀕している患者に百人以上にインタビューをしたが、ほとんどの人は不治の病であることを知ったとき、はじめは「いや、私のことじゃない。そんなことがあるはずがない」と思ったという。」p.68
・「結局、死に対する自分自身の強迫観念にきちんと対応してきたセラピストだけが、患者が迫りくる死に対する不安と恐怖を克服するのを粘り強く愛情をもって助けるという役目を果たすことができるのだ。」p.81
・「このような状況に置かれたときにいちばん惨めなのは、金持ち、成功をおさめた人、支配欲のつよいVIPだろう。自分の人生を快適にしてくれていたものを失ってしまったからだ。私たちは死ぬときにはみな同じなのだが、O氏のような人はそれを認めることができない。最後までそれと戦い、死を人生の最終結果として謙虚に受けとめるチャンスを逃してしまう。彼らは拒絶と怒りを爆発させるが、それによってだれよりも絶望的になってしまうのだ。」p.97
・「患者 個人レベルの話をしているのではありません。とにかく看護婦たちに、痛みに対する理解がないのです。
医師 痛みの問題があなたにとって、いちばんのもんだいなのですね。
患者 そうですね、私が知っているガン患者にとってはそれ以上の問題はありませんでした。」p.112
・「健康であれば、人を必要とすることもありません。怖いのは一人で死ぬことではなく、拷問のような痛みなのです。髪の毛を引きむしりたくなるほどの痛みです。あまりにおっくうで何日もお風呂にもはいらなくても平気なことがありますよね。そんなふうに、だんだん人間らしさを失うような気がするんです。」p.119
・「つまり、私は本当の宗教をもっていなかったんです。他人の信仰を語っていたにすぎなかったのですね。」p.123
・「だって、人はいつ牧師を必要とすると思いますか。夜だけですよ。夜こそ人はひとりぼっちで苦しみに立ち向かい、闘わなければならないんです。そういうときにこそ牧師さんに来てもらいたいのです。たいていは、夜の十二時ごろから、そうですね……。」p.179
・「前述したように、患者たちは、黙って話を聞いてくれる人がそばにいて、怒りを吐き出し、行く末の悲しみに泣き、恐怖や幻想を語るように促されると、すんなりと死を受容するものである。私たちは、患者がこの受容の段階に到達するまでにどれほどの試練を要し、やがて双方向のコミュニケーションが成立しなくなる「エネルギー喪失(デカテクシス)」にいたるかを認識しておくべきである。」p.202
・「死について語るのを避けることは患者にとってより有害であると私は確信している。時間を割き、時を見計らって患者の傍に座り、話を聞いてあげたり気持ちを分かち合ったりすることのほうが、患者にとってずっと助けになる。」p.238
・「この本を読んだ末期患者の家族や病院関係者が、死に臨む患者の暗黙の訴えかけにもっと敏感になれば、それだけでこの本は役割を十分に果たしたといえるだろう。」p.238
・「患者の死後、家族に対して神の愛を語ることは残酷だし不適当である。家族のだれかを失ったとき、とくに覚悟する時間がほとんどなかった場合、人は怒り、絶望する。このような感情は表に出させてやらなかればならない。」p.289
・「読者にお伝えすることができないのは、こうした会話の中で当事者たちが実際に経験する部分だ。そこには、患者と医師、医師と牧師あるいは患者と牧師、それぞれの間に流れていく、言葉によらない会話が数多くある。ため息、うるんだ目、微笑み、手の動き、うつろな目、大きく見開いた目、伸ばされた両手……どれもこれも言葉以上にその気持ちを伝えてくれるものである。」p.297
・「医師 医者が余命を教えるなんてできないことは、ご存知ですよね。医者にだってわかりませんしね……確かに、患者のためを思ったつもりで、だいたいのことを言ってくれる医者もいるかもしれませんが、それを聞いたためにひどく落ち込んで、それからは一日として楽しく生きられないという患者もいるんですよ。」p.321
・「医師 残念なことを伝えるには、冷淡でつきはなした態度をとるしかないこともあるんです。
母親 それもそうですが。お医者さんはこういうことで感情的になっていられないし、感情的になるべきではないのかもしれません。それでも、言い方ってものがあるような気がします。」p.342
・「牧師 でも頼られるばかりではなくて、あなた自身が悩みを打ちあけたり、慰めてもらえるような相手はほしくないのだろうか、ってときどき思うんですが。
患者 慰めが必要だなんて思いませんわ、牧師さん。それに同情なんて、まっぴらごめんです。同情されるべきだなんて、思っていないのですから。私にはこぼすようなつらいことは、何もなかったという気がします。」p.390
・「このミーティングで、彼女たちは、末期患者の看護がいやでたまらないと口々に言った。目の前で死なれると、患者が看護婦たちに面当てをしているように思えるので、そうした腹立たしさも入り混じっていた。 なぜこのような気持ちになるのか、この看護婦たちは理解するようになっていった。そして今では、末期患者を苦痛にあえぐ人間として扱い、同室のさほど重体ではない患者に対する以上に行き届いた看護ができている。」p.412
・「私が言わんとすることは、動機や理由は異なっていても、セミナーに対する患者の反応はすべて積極的であった、ということである。」p.424
・「患者たちから学んだことを簡潔にまとめてみると、私から見ていちばん印象的なのは、自分の病気について知らされているいないにかかわらず、患者はみな病気が重いと気づいていたことである。しかし必ずしもそれを医師や家族に話すわけではない。」p.428
・「このセミナーでもっとも驚くべき点は、死そのものについてほとんど話さなかったことだろうと、ある学生が論文に書いている。死は死にいたる過程が終わる瞬間にすぎない、と言ったのはモンテーニュではなかったか。患者にとって死そのものは問題ではなく、死ぬことを恐れるのは、それに伴う絶望感や無力感、孤独感のためであるということがわかった。」p.435
・「これまで述べてきたことからわかるように、末期患者には非常に特別な要求がある。それは、私たちが座って耳を傾け、それが何なのかをはっきりさせれば満たされる。おそらくもっとも重要なのは、こちらにはいつでも患者の不安を聞く用意があると伝えることだろう。死を迎える患者と向き合うには、経験からしか生まれないある種の成熟が要求される。不安のない落ち着いた心で末期患者の傍らに座るためには、死と死の過程に対する自らの姿勢をよく考えなくてはならない。」p.438
・「私たちはつねづね、末期患者だけの集団療法が必要ではないだろうかと思っている。患者たちは寂しさや孤独感を共有していることが多いからだ。病院で末期患者に接する仕事をする人びとは、患者同士が相互に影響を与え合っていること、重篤患者同士の会話の中には互いにとって助言となることが多く含まれていることにはっきりと気づいている。」p.444
・「「言葉をこえる沈黙」の中で臨死患者を看取るだけの強さと愛情をもった人は、死の瞬間とは恐ろしいものでも苦痛に満ちたものでもなく、身体機能の穏やかな停止であることがわかるだろう。人間の穏やかな死は、流れ星を思わせる。広大な空に瞬く百万もの光の中のひとつが、一瞬明るく輝いたかと思うと無限の夜空に消えていく。」p.448
・訳者あとがきより「原書のタイトルを直訳すれば、『死とその過程について』となる。死とは長い過程であって特定の瞬間ではない、というのが著者の基本主張である。しかし『死ぬ瞬間』という邦題はすでに人口に膾炙しており、変更は混乱を招くことになると判断し、原題は副題として掲げることにして、タイトルそのものは旧邦題を踏襲した。」p.450