ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術, 立花隆, 文春文庫 た-5-15, 2003年
・立花隆が本について語った、前出『ぼくはこんな本を読んできた 立花式読書論、読書術、書斎論』の続編。内容は大きく分けて三部構成。まずは、本についてのあれこれ、タイトルにもある速読術についても語った約90ページに渡るやたらと長い序文。速読術については、要は "新聞の見出し読み" なので特に目新しさは無い。次に本編の『私の読書日記』。数多くの新刊書が紹介されているが、自分と重なったのは(未読だが)ワールドロップ『複雑系』の一冊のみ。最期のオマケとして『「捨てる!」技術』なる本への痛烈な批判の文章を掲載。槍玉に挙がった本には気の毒だが、"書上で他人を批判する" その方法の一例として興味深い内容。
・ブログ記事の文字制限により、文字に着色が出来ず残念。
●序 宇宙・人類・書物
・「本書は、「週刊文春」にいまも連載中の「私の読書日記」の1995年11月30日号から2001年2月8日号までの約五年分をまとめたものである。」p.12
・「以前、『ぼくはこんな本を読んできた』の中でも述べたことだが、この読書日記は、私の個人的な読書生活(仕事上のあるいは趣味上の)をあるがままに記録したものではない。私はこれを独特の新刊案内のつもりで書いている。」p.12
・「やはり書店というのは、一国の文化の最前線の兵站基地みたいなものだから、そこでの物流(情報流)を見ていると、一国の文化、社会の全体像がよく見えてくる。 いってみれば、書店の店頭というのは、一国の文化、社会の現状を伝える最高のメディアなのである。」p.15
・「「いかにも書評らしい書評」とは、要するにその本に対して同じフィールドの専門化がもっともらしい評価を偉そうに書きつらねている書評である。(中略)私が書評に求めるのはもっぱらその本が読む価値があるかどうかの情報である。(中略)書評子にできることは、読む人の邪魔にならない程度の参考意見を述べる程度のことでしかない、と私は思っている。」p.17
・「新刊本が取り次ぎから書店に配本され返本されるまでの、平均店頭滞在期間はわずか五、六十日程度」p.18
・「世の中ヒマ人と忙しくて仕方がない人(いろんなグレードがあるが、ゆっくりメシを食うヒマも十分にとれないのが日常的、という人が本当に忙しい人)とどちらが多いかといったら、ヒマ人のほうが多い。」p.21
・「本を読む喜びはいろいろあるが、やはり、思わずヘエーッと心の中で驚きの叫びを上げてしまいそうになる一節に出会ったときの喜びがいちばん大きいのではないだろうか。この本には、そういう小さなヘエーッが何百冊分もこめられているから、情報量が相当に多い本になっている。」p.23
・「どうしてもという状況に迫られると、人間普通ではとても読めないようなスピードで読むことができるものである。」p.25
・「一般的にいって、読むこと自体を楽しもうという本は、速読しないほうがいい。ゆっくり読んだほうが、楽しい時間がより長くなる。速読が可能でかつ速読したほうが得なのは、読むこと自体を楽しむ本ではなく、情報が沢山つまった、多少専門的な内容の本で、書かれている情報の読みとりそのものを目的とする参考資料のたぐいである。」p.26
・「理系のカルチャーと文科系のカルチャーの間にはいろんな意味で大きなちがいがあるが、この情報伝達の様式のちがいと、それによる効率のちがいが、最も大きなちがいの一つである。」p.27
・「大事なことは本を読むときに、逐語的に文章を読み、逐文章的に本全体を順次読んでいこうとしないで、本全体の構造がどのようにできているか、その流れだけをとりあえずつかもうとすることである。」p.29
・「つまり本の読み方を細部の読みから全体の読みへという通常の順序とは全く逆に、粗雑な「つかみ」から、少しずつ細かな把握へと、読みの方式そのものを変更してしまうわけである。 これは音楽的な読みから、絵画的な読みへの転換といい変えてもよい。」p.33
・「要するに、絵画的読みの本質(音楽的読みとの最大のちがい)は、全体像を常に見すえながら、読みの深さ、読みのテンポを自在に変えていくことにある。」p.35
・「「じっくり読み」の価値がない本までじっくり読むことは、時間と脳のキャパシティを無益に浪費すること以外の何ものでもない。」p.37
・「これからの時代、人間が生きるとはどういうことかというと、「生涯、情報の海にひたり、一箇の情報体として、情報の新陳代謝をつづけながら情報的に生きる」ことだ」p.40
・「言葉をかえていえばそれは定説がくつがえることに対応する能力ともいえる。だから、定説でないことに対して強い関心を持つことは、人間の柔軟な適応力を養う上で最重要なことである。」p.46
・「小出版の世界というのは、毎年百社新しい会社が設立されて、一年たつとそのうちの一割しか残っていないというような世界なのである。」p.53
・「つまり、書店や図書館は、人類文化の全体を大宇宙とすれば、その全体像をできるだけ写しとった中宇宙として、形成されているのである。人は自分の小宇宙を作ることを、書店や図書館に行って、何冊かの本の読者となり、その本の数だけの小世界の住人となる経験を積むことからはじめるわけである。 どれだけ多くの本を読み、どれだけ多くの小宇宙の住人となり、自分をどれだけ多くの他世界存在者にしたかによって、その人の小宇宙の豊かさがきまってくる。」p.56
・「円本時代の話を長々と書いたのは、日本の出版界が、この時代を境に全くその性格を変えたからである。今日の出版業界の基本的な体質は、この時代にできあがったといってよい。 それまで、本は数千部作って売れればよいという世界で、売れてもせいぜい数万部にとどまっていた。それが一挙に数万部は当り前、当ったら数十万部という大量生産、大量販売の時代に入ったのである。」p.69
・「本の将来を考えると、ノン・リスキー・ビジネスの方向での、ある可能性がこれからもっと拡大していくだろうと思う。それは電子出版、電子流通の可能性である。(中略)デジタル・コンテンツの時代になって、ますます紙の本の価値が再認識され(中略)むしろ、紙の本の世界はますます栄えていくと思う。」p.74
・「将来の本のもう一つの予想される方向性は、すでに多くの本においてその方向性がはっきり出ているが、ヴィジュアル化という方向である。必ずしもヴィジュアル主体の本にするということではなく、ヴィジュアルな要素をできるだけ取り入れた、わかりやすい本にするということである。」p.78
・「言語使用は思考の絶対必要条件だろうか。思考のすべては言葉によってなされているのだろうか。言語を使わなければ人間は考えることができないのだろうか。 決してそうではあるまい。もしそうだとしたら、人間は言語能力の獲得以前は何も考えていなかったことになる。」p.82
・「さて、最後に一言総括めいたことをいっておけば、私は書物というのは、万人の大学だと思っている。どこの大学に入ろうと、人が大学で学べることは量的にも質的にもごくごく少ない。大学でも、大学を出てからでも、何事かを学ぼうと思ったら、人は結局、本を読むしかないのである。大学を出ようと出まいと、生涯書物という大学に通いつづけなければ、何事も学べない。」p.87
・「最後に、いかなる本を読む場合でも忘れてはならない忠告を一つ。 本に書いてあるからといって、何でもすぐに信用するな。自分で手にとって、自分で確かめるまで、人のいうことは信じるな。この本も含めて。」p.87
●私の読書日記 1995.11~2001.2
・「コロネット作戦では、まず、百八十日間にわたる艦砲射撃と空爆で防御陣地を徹底的に叩きのめし、ロケット弾とドイツのV1型誘導爆弾で猛攻を加え、枯葉剤で植物を丸はだかにした上で、九十九里浜と相模湾に上陸して、東西から東京に迫るというものだった。日本側は数百万人の死傷者を出し、アメリカ側も数十万人の死傷者が出ると予測されていた。 第三の原爆もどこかで使われることになっていた。 もし八月十五日に戦争が終わっていなかったら、原爆、毒ガス、生物兵器、枯葉剤で、日本は文字通りハルマゲドン状態になっていたのである。」p.96
・「なぜアメリカは、世界に自分たちの価値観を押しつけるのか。世界のどこかで衝突があると、なぜアメリカはすぐに軍隊を出動させ、「世界の警察官としてふるまおうとするのか。 その根底には、自分たちは神から選ばれ使命を与えられた特別の民であるという選民思想がある。どんな使命かというと、この世に正義と平和をもたらし、悪に満ちた世界を神の意に沿う世界に作り変えていくというものである。アメリカがやることは神の意だから、すべて正しいのである。」p.111
・「そのころヒトラーはパーキンソン病の末期症状で、いつも震えており、筋力が低下し、感覚と知覚もそこなわれていた。バランス感覚を失って、ペンで署名することもできなかった。二、三十メートルの距離すらまともに歩けず、しょっちゅう口の両端からよだれをたらしていた。 末期の総統地下壕は、爆撃で生活維持昨日がほとんど失われ、使えるトイレがひとつしかなく、換気設備がダウンしていたので地下壕全体がトイレの臭気でムンムンしていた。軍部への通信回線も機能を失っていて、軍を指揮することなど全くできなくなっていた。情報も入らなかった。最後の頃は、BBC放送のニュースが最も頼りになる情報だったという。」p.137
・「これまで、地上の生物はすべて、植物による光合成をもとにした太陽光をエネルギー源とする食物連鎖の上に生態系を作っていると考えられていたが、深海底には、チューブワーム以外にも、熱水噴出ガスをもとにする生物がいろいろいて、太陽光と全く無縁の生態系が成立しているということがわかってきた。 熱水系の生物に関しては、まだわからないことがいろいろあるが、こちらの方が、実は地球の本当の生命の起源に近いのだという説が生まれている。」p.139
・「人間というのは、健康のためなら、相当怪しげなものにも平気で金を投じるものである。昭和八年発行の『売薬部外品の製造と販売法』という本には、「ボロイ金儲け!! 若しも世知辛い此世の中にボロイ金儲けが、実在するとすれば、売薬こそ真に其の名を恥しめぬものでなくてなんであろう」と書かれているという。」p.148
・「これほどの伝説にとりまかれ、これほど日本中に足跡があるのは、役行者以外には、空海ぐらいだろうが、実は空海は役行者の生まれ変りだという説がある。いや、それだけではない。役行者は聖徳太子の生まれ変りで、聖徳太子、役行者、空海はみな同一人物で、実は、「菩薩の権化」であるともいう。」p.154
・「日本はこの半世紀間に、二度にわたって国家経営を根本的に誤り、国をほとんど破産状態におとしいれた。一度目は戦争によって、二度目はバブル経済によって。しかし、二度とも、ときの国家指導者から、このような真摯な自己批判自己反省の弁は全く聞かれなかった。日本は指導者が無反省ですむ国だから、またいずれ劣悪な指導者によって国が危うくされるだろう。」p.186
・「(『ピエール・ベール著作集』法政大学出版局)全八巻で、トータルページ数一万一千二百ページ、重さ十六・三キログラムである。定価は全部合わせて二十二万五千円。一週間ばかり買おう買うまいか考えて、思い切って買ってしまった。ヨーロッパ思想史に感心を持つ者としては、これは欠かせない本なのである。作者、訳者、出版社がこの本に注いだ情熱とエネルギーと時間を考えたら、この価格でも決して高くないと思った。」p.196
・「編者のいう通り、現代の教育は成功事例を教えることに偏りすぎている。本当は成功事例より、失敗事例のほうが、はるかに学ぶところが大きい。我々はもっともっと失敗を学ぶべきである。」p.199
・「日本は、現場のマイナス情報がトップに伝わらない国であると同時に、あらゆる角度から可能性を検討した上での総合的戦略がたてられないためにバカげた大ポカを国家的にしでかしてしまう国なのである。」p.208
・「人の場合でも、たまたま特定の物質による汚染で、女性ホルモンに大量にさらされてしまったという事例があるが、その被害者の女性から、母性本能を失って子育てを放棄してしまう女性が出たりしたし、男女とも、不安症、神経性食欲不振(拒食症)、強迫神経症、強い鬱状態、免疫異常などがあらわれているという。 最近の世相に目立つ、一連の社会病理学的現象は、一般にストレスのせいなどといって片付けられがちだが、実は、こういう要素も相当影響しているのかもしれない。」p.213
・「平安時代を本当に理解しようと思ったら、当時の人々がいかに陰陽道を重んじていたかを知らねばならないとよくいわれる。」p.224
・「たとえば、<チヨダ>と呼ばれる公安警察の闇組織のことである。<チヨダ>というのは、スパイ工作や、盗聴といった非合法捜査をになう秘密組織である。表向きはこれは存在すらしていないことになっているが、実は公安のエリート中のエリートが選抜されて配属されるウラ組織なのである。(中略)小杉巡査の一件も含め、オウム事件の消えた謎の部分は、結局、この公安警察のヤミの部分とどこかでからんでしまっているのである。」p.252
・「宗教改革も、世界の終りが切迫していると感じていた改革者によってなされた。たとえば、ルターはこう叫んでいた。 「最後の日は戸口まで来ている。いまこの世に残された時間は掌ほどの大きさもない。『黙示録』の最後の封印が破られようとしている。われわれの子孫たちが聖書の記述の結末を目にするだろう、いやもしかするとわれわれ自身が目撃者になるかもしれない」 イギリスのピューリタン革命を起したクロムウェルも、近代科学の祖となったアイザック・ニュートンも、世界の終末が近いと思い、週末の日までの計算に熱中していた。」p.305
・「(吉田満『戦艦大和ノ最期』)この簡潔で濃密な文章は、近代日本語散文の傑作中の傑作である。文語体の格調の高さ、内容の悲劇性、ほとんど昭和の平家物語といっていいくらいだ。」p.338
・「通産省は、インバース・マニュファクチャリング(逆工場)こそ、未来の産業構造の中核をなすべきシステムであるとして、強力にその流れをバックアップしている。」p.346
・「(保坂正康『昭和陸軍の研究』朝日新聞社)最近、歴史を知らないバカとしかいいようがない連中が、戦争をしたり顔で論じ、それに若い人々が影響を受けたりしているようだが、そういう若い人に、この本を読めといってやりたい。」p.348
・「同じように、世界のあちこちに、意味不明だが、蜃気楼としてあらわれたときの形を宗教的に解釈すると意味を持ってくる巨大絵、巨大線刻、巨大建造物が沢山あるという。」p.368
・「でも、カエルなんてちょっとやそっと消えたってどうということないじゃないかという人には、「リベット抜き説」を紹介したい。 飛行機からどんどんリベットを抜いていくと、最期はバラバラになって墜落する。カエルを地球生態系という飛行機のリベットの一つと考える。つまり、カエルくらい消えても飛行機は順調に飛ぶ。しかしさらに数個リベットが抜けるとガタつきが激しくなり、もっと抜けていくと、生態系全体があるとき突然崩壊してしまう。」p.417
・「トッパン印刷が同社の小石川ビルに作った印刷博物館(館長粟津潔)が出色の博物館だという評判を聞いて、ちょっと見てくるつもりで出かけたら、その内容に圧倒されて、三時間もかけて徹底的に見ることになってしまった」p.421
●『「捨てる!」技術』を一刀両断する
・「そういう観点から見るとき、私はこの本を全く評価しない。ほとんどカスみたいな本だと思っている。「捨てる技術」を使うなら、まっ先に捨ててしかるべき本だと思う。カスみたいな本がベストセラーになることは決して珍しいことではないから、それはそれでよいのだが、この本に書かれているような、ものの見方、考え方が、よきものとして、社会的にもてはやされるのはよくないと思っている。」p.431
・「やっぱり資料は生きているんだと思った。資料は生きた自分の一部なのである。いってみれば、資料は外部空間においた自分の脳の一部、メモリーの一部なのである。生身の自分と全く離れたところに持っていってしまうと、メモリーも死に、それに応じて自分の一部も死んでしまうのである。 人はたしかにメモリーベース・アーキテクチャーなのである。メモリーは、その人の本体である。人格の相当部分がメモリーの中にある。それは、資料だけでなく、記憶がやどったモノの中にもある。」p.441
・「どうしてこの著者は、そのようなものの見方に対して、「それ(聖域不要論)はあなただけの価値にすぎない」という立場もあるのだということに気がつかないのだろう。「他人の "とっても便利" は私の "じゃま"」ということには気がつくのに、どうして、「"他人のじゃま" は私の "大切"」ということもあるのだということに気がつかないのだろう。」p.446
・「要するに、本音は、消費社会のモノの呪縛にとらわれた生活をもっともっと楽しくつづけたいということなのだ。 そのための便法としての「捨てる」なのであって、そこには瀬戸内寂聴さんが共感をよせるような要素、つまり、モノへの執着を本質的に断とうというような要素は全くないのである。」p.449
・「どういう意味において誤っているのかといえば、生命史の流れにおいても、人類史の流れにおいても、よきものを作ってきたのは、常に「捨てない派」だったということである。よきものは捨てない派が作るストックから生れてきたのである。常に無用とも思えるほど過剰なストックの中から、未来(次の時代のにない手)が生まれてきたということである。」p.451
・「ヒトが他の生物とちがう最大のポイントは何かというと、それ以前の生物のほとんどがエネルギー・フローの流れの中にとどまり「手から口への生活」をしていたのに対して、はじめて本格的にストックを作り出して利用する、ストック依存型生物となったことである。」p.452
・「人類社会は、「捨てない」ことを基礎原理として、それによって形成されるストック中心の社会として発展してきたのである。それによってヒトは個体中心動物から、社会性動物へ変ったのである。」p.454
・「そういう目でこの本をあらためて読み直してみると、この本は一種の強迫神経症にかかった人が書いた本だということがよくわかる。 この本は冒頭いきなり、 「捨てなきゃいけない――これが、現代に生きている私たちにとっての至上命題だ」ではじまる。「――しなきゃいけない」という観念に強くとりつかれてしまうことが強迫神経症だから、正に強迫神経症の定義通りの症状なのである。(中略)「強迫観念→現実との相克→ジレンマの拡大→ブチ切れ→発作的行動→快感→快感行動の習慣化→異常行動の心理的合理化」という具合に、強迫神経症の典型的な転帰をたどっている。そう思って読むと、この本の中核をなす、捨てるテクニックと称するくどすぎるメモも、神経症の患者がよく書くパラノイア的メモと読めるだろう。」p.455
・「彼女のいうような、「みんなあたしのようにブチ切れて、どんどん捨てましょう。捨ててスッキリ快感を持って、楽しい消費生活をつづけましょう」という生き方の選択は正しくないと思う。 これはまるで、便秘症の人があるとき下剤をかけたらスッキリ快感を得たので、みんな毎日下剤をかけてスッキリしようと呼びかけているようなものである。」p.457
・「結局のところ、現実策は、「捨てなきゃねえ」と「捨てられない」のジレンマに悩みつつ、自分に可能な限度で捨てつつ生活していく、著者のお母さんの生活スタイル(キャパシティが許せる限度で持ち、心理的に許せる限度で捨てる)しかないと思う。それが現実にみんながやってくることだろうが、それでいいのだと思う。そういうジレンマに悩みつつ、ぐずぐず生きていくのが人間として正しい生き方なのであって、著者のようにブチ切れて、すぐにじゃんじゃん捨てはじめるほうがおかしいのである。」p.458
・「人はその持っているモノとともに、そのモノに喚起される形でポテンシャルな過去と未来を記憶と構想という形で同時にひきずっているのである。人間存在というのは、そのような時空と次元(リアルとポテンシャル)を超えた広がりとしてある。その意味で、そのようなモノもその人の一部なのだ。 「捨てる技術」を安易に行使して、モノをどんどん捨てていくことは、そのようなポテンシャルを切り捨てるということなのだ。自己を切り落すということなのだ。」p.461
・「個体だけではない。社会も無駄な部分をいっぱいかかえたポテンシャルの高い社会のほうがよりよく生きることができるのである。個人の生だって同じことだ。『「捨てる!」技術』なんかに騙されずにゴテゴテしたものを引きずったまま生きる人生のほうがはるかにいい人生なのである。」p.463
《チェック本》
・エリザベス・M・トーマス『猫たちの隠された生活』草思社
・朝日ジャーナル編『大江戸曼陀羅』朝日新聞社
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【本】ぼくはこんな本を読んできた 立花式読書論、読書術、書斎論(2006.12.6)