ティアーズ・トゥ・ティアラ
第18話 帰還 △
ここにきて大して気にもしてなかったことの
ネタばらし、アルサルを「小さな王」に
するためのデキレースだったんだと。
ま、とは言っても「ゲーム」の性質上
「大きな王」にはどうひっくり返っても
なれないのよねえ、KOEIのゲームじゃないし
小さな王を作るための小ぢんまりとした
おはなしってとこで、目指していたのは
もうちょっとスケールの大きいおはなし
だろうけどさ。
うみねこのなく頃に
episodeⅡ-Ⅰ middle game △
「記号殺し」も飽きてきたので
ちょっとキャラクターに血肉づけ
そして多分ヒントとミスリードのバラ撒き
ところで「今回」のおはなしのくだり
うんぬんは例の大量殺人事件前のステータス
して共通の地盤のものなのかはたまた
個別にそれが存在してるのか
記憶をハッキリ保持している人とちょっとだけ
それを持っている人がえんえんとループ
してるって設定はちょっと食傷気味だけどなあ
涼宮ハルヒの憂鬱 第19話
「エンドレスエイト」 △+
∞→8→エンド
「宿題」ってのが「課せられたもの」と
認識していなかった人にとって「娯楽」で
あったということは否定すまい
「すすんでやる」か「いやいややるか」が
問題だったわけで
「アニメーション」っていう
「いちれんの流れ」が強力な媒介において
「あえて」おんなじ話のスジを8回やってみせた
わけで、大概の人達にとっては「退屈」では
あったろうとは想像に難くない、では
「そうではない」少数の人達ってのはどんなのか
よっぽど京アニに心酔してるとか、アニメの話の
スジよりも個々の演出に注目してるとか
長門がでてれば細かいことはどうでもいいとか
あるいは、これは逆転的に「送り手側」の
為のおはなし、ともいえなくはない
簡単な意味なら反面教師的な側面
勘ぐるなら「こんぐらいやってもいいのか」
というドン・キホーテ的な勇気づけ
そう考えるのなら「受け手側」が何かを
「強いられている」と感じるのも正当ではある
そしてそうした「損な役回り」をキョウトさんが
自覚的に引き受けたのだとしたら
それは単なる「娯楽提供装置」であることに
対する青々しい異議なのかもしれない。