(↑久しぶりの「亀屋万年堂」のお菓子。こんな変わった大福が。元々大好きだった「カレーたん」を見つけられず、「シャトレーゼ」の子会社になって、品揃えが変わった??)
わたしはこう祈った。
「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ、主を愛し、主の戒めを守るものに対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ。
耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。
あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、
イスラエルの人々の罪を告白します。
私たちはあなたに罪を犯しました。
わたしもあなたの父の家も罪を犯しました。
あなたに反抗し、
あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟を守りませんでした。
どうか、あなたの僕モーセにこう戒められたことを思い起こしてください。
『もし叛くならば、お前たちを諸国の民の中に散らす。
もしもわたしに立ち帰り、わたしの戒めを守り、それを行うならば、
天の果てまで追いやられているものがあろうとも、わたしは彼らを集め、
わたしの名を住まわせるために選んだ場所に連れて帰る』。
彼らはあなたの僕、あなたの民です。
あなたが大いなる力と強い御手を持って贖われたものです。・・・・
ネヘミヤ記1章5節〜10節
(ネヘミヤとは、ペルシャの時代に王より許可を得てエルサレムに帰り、
新バビロニアによって壊されたエルサレムの城壁を修復した人です。)
私は、
結婚、出産などの時期を除き
教会学校の教師を約35年間続けてきました。
なので毎週子どもたちと
聖書の箇所についての学びをする機会がありました。
夏休みと冬休みを除いてほぼ毎週のことで、
今思い返せば、かなりの時間、かなりの回数に及んできたなと
自分でもびっくりするくらいです。
今、一緒に教師を続けている75歳の男性が、
「いやあ、教会学校の教師をしてなかったら、
これほど聖書を勉強することもなかったかも。
ありがたいことだ」とよくおっしゃいます。
ただ日曜日だけのことだけでなく、
その準備のためにウィークディも時間をとる日々の中で、
こんな風に感謝できるのはすごいことだと思いつつ、
わたしも確かにそうだなあと思う部分も。
(わたしはそんなに真面目ではないので、時々たいへ〜んって思っちゃう)
教会学校では
年間のカリキュラムの中で
旧約聖書も新約聖書も同じくらいの比重で
読んでいきます。
ここ1ヶ月ほどは、
世界史でも際立って有名なあの新バビロニア帝国の
ネブカデネッツアル王によって、
南ユダ王国が滅亡、
バビロンへ捕囚されたのちの
200年間くらいの歴史を旧約聖書から読んでいます。
新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシャのキュロス王から、
5代目のアルタクセルクセス王までで、
ペルシャにとどまったユダヤ人たちや
エルサレムへの帰還を許されたユダヤ人たちの話が中心です。
(エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記)
日曜日の礼拝説教では、
旧約聖書の話を聞く機会はそれほどないのですが、
教会学校では取り扱いますので、
旧約聖書についてはかなり勉強になるのです。
旧約聖書は
簡単に言えばユダヤ人の歴史ということができます。
さらに言えば
「ユダヤ人を通して働かれる神様の全人類の救いの歴史(前半)」
と言い換えることができるかと思います。
歴史というのは、いろんな出来事の積み重ねではありますが、
どちらの視点から書くか、そこに解釈が入り、
他方向から見たら、少し歪んだものに見えたり、
間違ってると評価されることも。
日本の学校で使われる教科書でも、
歴史認識についてはさまざま議論のあるところで、
他国から批判もされたり、
その時の国の方針で採択されたり却下されたりしますものね。
ユダヤ人の選民思想の根源のように
言われる部分もある旧約聖書ですが、
実はそんなことはないことが読んでいくとわかります。
天と地が神様によって作られたということ、
アダムとエバによって人に罪が入ったということ、
このあたりは人類の最初に関することですが、
創世記の12章以降は
アブラハムという一人にフォーカスオン。
(実は彼の子供のイサクとイシュマエルによって
のちのユダヤ人とアラブ人に分かれていくのですが)
たった一人の人間から
神様の全人類の救いがスタートするということなのですね。
でも、フォーカスオンされた
イスラエル民族の歴史は、とても大変です。
きちんと神様の方を向いているときは祝福されますが、
バビロン捕囚も然りで、
神様を忘れ、
自分中心になり
「ナショナリズムを持った選民思想」が中心となれば、
神様からの厳しい裁きを受ける・・・。
その繰り返しの中で、
新約聖書のイエスキリストの誕生、十字架へと繋がっていくのです。
ユダヤ人の生活の中に、
同じく自分の弱さも見ることができるわたしたち。
他国の、他人の歴史なのではなく、
まさに人間の歴史として読むと、
多くの示唆を得ることができます。
旧約聖書は、時の有名人だけでなく、
その場に生きた一般の人、
イスラエルの民という集団も出てきます。
そこにいる人たちが決して強いわけではなく、
すごく人間的な生き方をしてしまう、
そこでいろんなことが起こっていく・・・。
読んでいると、
いかに人間が小さくて、醜くて、
でも神様の目から見たら
尊くかけがえのない存在なのかを知らされます。
最近は『ドロドロの聖書』も読んでましたので、
そんな思いがさらに強くなりました。
広く言えば、
聖書に限らず、
歴史を学ぶって大事なことだなと思わされます。
人類の歴史は繰り返します。
良いことも悪いことも。
過去を知ることで、
これからの歩みも慎重になるはずだと思うからです。
と、ここまで書いてきましたが、
旧約聖書を読むと
過去の歴史を大事にするユダヤ人でさえも、
何度も何度も同じ失敗を繰り返してます。
つくづく人間というのは、
過去のことを自分のこととできない、
自分は違うと思って生きるものなのかもしれませんね。
こちらも色々考えさせられました。
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