不知火の町 一度はお母さまに会っておきたいという久美の希望で、五月の連休を利用して八代に帰郷することになった。 東京駅を朝の九時前に出て、八代に着いたのは午後五時近かった。 新幹線と特急で熊本へ。在来線に乗り換えて八代まで、ほぼ八時間をかけての長旅は、慣れているはずの吉村の方が音を上げそうになった。「久美さん、疲れなかった?」「岡山から先は来たことがないから、楽しかったわよ」 新大阪を出 . . . 本文を読む
年賀状狂想曲 富士山に初冠雪があったとのニュースが、朝のテレビ画面に流れていた。 平年より一週間ほど早かったとのことで、吉村の住む高円寺のアパートでも、明け方の寒さは冬近しを思わせるものだった。 一昨年までなら、ウールのシャツ一枚でせんべい布団に横たわり、冬山に備える訓練を課していた時期だが、去年は久美の祖母の他界、自分のバイク事故と続き、今年は早川の滑落死が追い討ちをかけるなど、身辺に暗雲 . . . 本文を読む
滑落 七月の第二月曜日、早川が無断欠勤したというので、集配課はみな大慌てしていた。 班長は欠員となった配達区の穴埋めに、自ら郵便物の区分を始めていた。その間、課長は早川の自宅に電話を入れて状況把握に努めていた。 しばらく呼び出し音が続いた後、やっと電話口に出たのは早川の母親らしかった。それは課長席から聞こえてくる会話のやり取りから推察できた。「えっ、息子さん家に居ないんですか」 課長の不 . . . 本文を読む
キリキリシャン 今年こそ結婚をと誓いあった矢先に、久美の祖母が亡くなった。何年かぶりの寒波に見舞われた二月半ば、一週間ほど臥せったあと入院して三日目に還らぬ人となった。 最期は呼吸困難に陥り、正視できなかったと久美が涙ぐんだ。医師が示す肺のレントゲン写真は、壊死した細胞の墓場と化していた。酸素吸入でも軽減できない肺炎の苦しみが、久美の話から想像できた。「ごめんなさい、つい取り乱してしま . . . 本文を読む
草津にて なぜ、そんな気になったのだろう。湯もみを見ようなどという気に・・・・。 湯畑をひとめぐりしたとき、右手の古びた小屋から入場開始を告げるアナウンスがあり、鼻にかかった案内嬢の呼び込みに好奇心をくすぐられたという面はたしかにあった。 吉村は、祭りや見世物に人一倍の興味を持っていた。 ただ、人ごみの隙間に仄見える影のようなものを意識する癖があって、子供のころから手放しで騒ぐといった . . . 本文を読む
飛ぶ 四月二十日の逓信記念日に永年勤続を表彰された課長代理が、問われるまま苦労話を披露した。報告がてら職場巡りをしている最中だった。「勤続四十年とは驚きました。いろんなことがあったんでしょうね」 水を向けられると、もう止まらない様子だった。「当時はね、臨時補充員という身分で入って、一年間じっくりと勤務態度を見られたもんだ。まあ見習い期間だから、必死に働いたなあ。・・・・きみらのように採 . . . 本文を読む
日々是好日 マリオン・クロックの前は、人ごみでごった返していた。 有楽町駅から流れてくるJR利用客と、真近の地下鉄銀座駅から湧き出てくる乗客が一緒になって広場にあふれていた。 久美はこの場所なら待ち合わせに最適と考えたのだろうが、吉村は人出の多さに不安を感じていた。 待ち合わせ時刻の十一時までに、久美の姿を見つけることができるだろうか。 吉村は車道と歩道を隔てる金属フェンスに寄りかかって . . . 本文を読む
逃げる 朝から霙もようの天候になっていた。 ここ数年暖冬が続いていて今年も例外ではなかったが、ときおり寒い日がやってきて人々をあわてさせた。 吉村は朝一番の速達を配達し終えて、次の便に備えていた。濡れた合羽は腰高の丸椅子にかけてある。室内の暖房によって少しずつ乾きはじめていたが、床に滴った雫がその染みを拡げていた。 窓外に目を転じると、近くを通る首都高速道路の入口がスキーのジャンプ台のよ . . . 本文を読む
舟艇暮色 十月のある一日、吉村は休みをどのように過ごそうかと迷ったあげく、スポーツ新聞に載っていたレース・ガイドに誘われて多摩川競艇に出かけることにした。 山男の彼とギャンブルの間に、親和するものがあるようには思えなかった。しかし相性はともかく、彼自身は遥か以前から賭け事に惹かれる自分の性質に気付いていた。「おれだって、破れたり崩れたりすることはあるよ・・・・」 金銭だけの賭博ではなく、人 . . . 本文を読む
黄金の紐「郵便屋さん、そりゃないよ」 遠くから凛とした声がひびいた。 春とはいっても、まだ寒気が緩むまえの朝十時である。その滞った空気を貫いて、容赦をしない女の声がぴしりと飛んできた。 吉村はおもわず歩みを止めて、からだを固くした。二十センチほどの細い銀線が背後で煌き、彼の後頭部を光のように射貫いていったのを、はっきりと意識した。(なるほど、神様の目は誤魔化せないな) それが女の声だとわ . . . 本文を読む
(アサリの味噌汁)
正孝は、滝口に連絡するつもりが、間違って艶子の電話番号を押していることに気づいた。
どういうことだろうと、自分のとった行動を訝しむ。
選りに選って、なぜ艶子の電話に?
すでに、この世に存在しない女性の持ち物。
警察に押収され、現在どこにあるかもわからないケータイが、意思を持ったかのように呼ぶのだろうか。
正孝は、艶子が何かを訴え . . . 本文を読む
(そして神無月)
堂島秀俊が殺人容疑で逮捕されたのは、朝の8時ごろ東京むさし野市の自宅マンションを出たところでだった。
街路樹の葉が色づき始めた季節、きちんとスーツを着た三十代後半の男に、物陰から現れた私服刑事が3人擦り寄ったかと思うといきなり令状を示したのだ。
自分の名前を呼ばれると、男は一瞬たじろぎ、「な、なんですか」と刑事の一人に声を荒らげて抵 . . . 本文を読む
(企みの交差点)
思い出したくもないことだが、福島第一原子力発電所の過酷事故は、何年たっても伊能正孝の心を打ち震わす。
安全をうたいながらメルトダウンにまで至った責任は本来誰かが負うべきものだが、実際には想定を超える大地震と津波を理由に言い逃れを繰り返してきた。
原発を推進した政党と監督官庁は、政権を奪還するや当該電力会社を矢面に立たせつつ、当面の補償や運営の . . . 本文を読む
(巨魁の影)
ホテルでの目覚めは快適だった。
病院や役所をめぐった柏崎での一日は、気疲れの連続であった。
一夜過ぎて、その時の疲れはほぼ解消していた。
さすがに金沢は癒しの街だった。
それもそのはず、伊能正孝の投宿したホテルは、緑の多い金沢城に近い場所にあって、空気の匂いも聴こえてくる物音も違っていた。
彼がこれから訪ねようとする村上紀久子の転居先 . . . 本文を読む
(善悪の彼岸)
伊能正孝は柏崎市役所の市民課におもむき、村上紀久子の転居先を調べるべく住民票の交付を申請した。
窓口職員は、申請者である正孝の住所を一瞥して、東京の法人が何かの調査のために来たのかと勘違いしたようだ。
「お身内の方ではないですよね?」
型どおりに質問しておいて、「・・・・弁護士さんか業者さんでしょうか」と質問を切り替えてきた。
そうじゃ . . . 本文を読む