<マンガ界とのニアミス>体験
『テスト・コースの青春』(10)のコメント欄に、(知恵熱おやじ)さんから激励とともに、当時の劇画・マンガ界とのかかわりを問う声をいただいた。
小説が進行中だったのと、コメント欄では書ききれないので答えが遅れてしまったが、この場で少しばかり触れてみたいと思う。
あまり正確な記憶ではないが、手元に残っている『ガロ』のバックナンバーを見ると1968年あたりから、ぼくは青林堂のマンガ版下づくりに関係する小出版社に勤めはじめたようだ。
社長は、ご自身歌人でもある島本正靖氏で、『印美書房』という個人出版社の薄暗い一室で、社員第一号として採用された。
場所は白山下にあり、まだ都電の軌道と石畳がそのまま残っている白山通りに面していた。
主たる仕事は、歌集や句集の自費出版を請け負うことで、割付、校正などを手伝う一方、道路をはさんだ小石川あたりに散らばっていた印刷所・製本所・箔捺し屋に足繁くかよった覚えがある。
一方、島本氏とどのような関係があったのか、青林堂からマンガの吹き出しに収めるセリフ部分の写植注文があり、ガロに掲載する作品の原寸に合わせての活字ポイント(級数)を計算したりした。
出来上がった出版物を注文主に届ける運搬の仕事も、ぼくの役割の一つだった。
貧乏出版社だったから、ハイゼットの超中古車を買うのがやっとで、あるとき納品先の木更津まで乗り出したのはいいが、いきなり白山の坂で息切れしてしまい、社長に降りてもらって押させる始末だった。
一年ぐらい経って、同じ白山下のビルの一室に事務所を移転することになった。それほど儲かる仕事をした記憶がないから、店舗ビルに移れたのは、ひとえに社長の才覚によるものだと思っている。
歌壇の知り合いに裕福な仲間が多かったのか、自費出版の歌集をつぎつぎと引き受けてきた。いま思うと、案外その仕事が利益を稼ぎ出していたのかもしれない。
事務所に写植機が持ち込まれ、たぶん共同事業の形でオペレーターが常勤するようになった。
活版が廃れ、写植印刷が全盛期を迎えるときで、印美書房の業況はいっぺんに活気を帯びるようになった。
出版部門と写植部門、クルマの両輪のように事業が回って、ぼくたちの給料も少し増額された。
この頃になると、青林堂との関係も密になった。
こちらから伺うよりも、編集者の某氏がときどき現れ、写植を依頼したり持ち帰ったりするようになった。
『テスト・コースの青春』の中に、少々オーバー表現で登場させた鼻毛の好漢のモデルである。
因みに、つげ義春の『ねじ式』に出てくる「メメクラゲ」なるものの正体をめぐって侃侃諤諤した一件は、吹き出し内に鉛筆で書かれた「××クラゲ」を、オペレーターが打ち間違えたものである。
ぼくも原稿段階で「メメクラゲ」と読んだ記憶があるから、オペレーターに限らず編集者も騙されたに違いない。
つげ義春の神秘性をいやがうえにも高めたエピソードは、つげさんの文字の書き方もふくめて三者のミスが重なった偶然と考えている。
ビルに移って一年が過ぎた頃、写植機がもう一台運び込まれた。今度の機械は自前のものだった。
オペレーターも増え、前後して営業担当の社員も一名雇い入れた。
五味川純平の『人間の条件』で大当たりした三一書房から、コチョコチョした仕事が入ってきたりして、文学好きのぼくの好奇心は大いにくすぐられた。
都電の軌道撤去と区画整理が進む中、ぼくたちは夜遅くまで残業をし、その後マージャン卓を囲んで日付境界線を越えた。
翌日が日曜日だと、徹マンをした勢いを駆って、よれよれになりながらそのまま競馬場へ繰り出したりした。
白山通りの水道橋寄りから、斜めにもう一本道路が造られていたような記憶がある。
後楽園側からバスやハイゼットで通りかかると、三角州のように取り残された家並みの先端に朝鮮飯店があり、黒っぽい板壁がなんとなく憮然とした表情で人びとの視線を受け止めていた。
この並びにはビリヤードの店があり、朝鮮飯店で腹ごしらえをしたあと玉撞きに興じることもあった。
社長の島本氏はビリヤードの名手で、その頃出入りするようになったイラストレーター(元東映の大部屋俳優さん)と、互いに軽口を叩きあいながら<四つ玉>で張り合っていた。
ハードボイルドで一世風靡した劇画家・佐藤まさあき氏が印美書房を訪ねてきたのは、その頃だったろうか。
あるいは事務所移転前の狭苦しい部屋だったかもしれないが、いずれにせよ、ぼくは紹介されて佐藤まさあき氏と面識を持つことができた。
そのときは古くからの友人と理解していたが、かつて<悪書追放>のあおりを食って貸本業界から締め出されそうになった佐藤まさあきの劇画を、敢然と出版して立ち直りのきっかけをもたらしたのが、当時高橋書店の編集者だった島本正靖氏である。
そのことを後になって知り、なるほどとガッテンした。
若者の間に『ガロ』派と『COM』派がいて、なんとなく反目しあっていたような気がする。
ぼくの贔屓は当然ガロの方で、COMを支持する連中が子供っぽく見えた。
もともと手塚治虫がガロへの対抗意識からCOMを興したわけで、その経緯からみても、影響を受けた読者がわが陣営の優位を信じようとしたのも無理はない。
当初、白土三平の『赤目プロ』がスポンサーになって発行されていた『ガロ』も、つげ義春、水木しげる、永島慎二、滝田ゆう、勝又進らの特集を出して売れ行きが伸びたころから、しだいに事業の主導権を握っていったのではないだろうか。
ガロを足場に羽ばたいていった漫画家は数知れず、<マンガ界の芥川賞>選考出版社と目されて長井さんは満更でもない顔をしていた。
その後も、林静一、つげ忠男らを輩出してガロらしさを保っていたが、新書判のコミック本が横行(?)するようになって、ぼくのマンガへの興味は薄れていった。
やはり辰巳ヨシヒロ、桜井昌一、佐藤まさあき、旭丘光志らの劇画草創・隆盛期から『ガロ』絶頂期にかけての十数年間が、ぼくが最も熱く青春を感じた時期であった。
振り返ってみると、ぼくは直接マンガの世界に居たことはないが、漫画家の誰それと結構すれ違ってはいたようだ。
中間に人がいて、間接的にかかわったケースが多いから、いわばマンガ界とのニアミスとでも言うべきか。
今回の小説では、実名での漫画家登場が多いが、物語はすべてフィクションである。
愛して已まない漫画家たちへのオマージュを、汲んでもらえればありがたい。
前半のテスト・コース造りの現場にも、真実と虚構が入り混じっている。
およそ小説とはこんなものだろうと思って書き進めた。
(知恵熱おやじ)さんの知りたいことに答えられたかどうか定かではないが、同時期かなり近いところにいたような雰囲気を感じている。
(くりたえいじ)さんとも、重なる時代を生きてきたようだ。いただいたコメントから、熱いメッセージが伝わってくる。
お二方に感謝申し上げるのはもちろん、ブログをお読みいただいている全員の方に、この機会を借りて御礼申し上げる次第です。
また、コメント欄は混み合っていませんので、自由にご発言いただければと期待しております。
二夜つづいての雷鳴、稲妻、梅雨の最中に変な感じですが、型も枠もない自然現象が大好きです。
では、どちら様もお健やかにお過ごしください。
長い連載が終わったと思ったら、作者自身の「あとがき」とでも申しましょうか。
ご自身の体験と物語とが折り重なっているところを告白されているようです。そこでまた、読者にとっては改めて興が湧くというものです。
概して小説とか創作というやつは、作者自身の投影があってこそリアリティが増し、活きいきとしますよね。
頭の中で、こねくり回したものとの違いがそこにあります。
本『テストコースの青春』も、まさにその伝と思われます。
そこにまた、写実的に時代背景を織り込んでいくあたりが一層、興味をかきたてました。同時代に生きてきたからこそでしょう。
それにまた、最終回では参考文献などを紹介されていたのも、共感を呼びました。
とまれ、作者の人生行路を背景にしながらの作品、これからもまた捻出されてきそうですね。期待します!
やっぱり・・・そうでしたか。
『テストコースの青春』は主人公が身を置く零細出版界の描写に只事ではないリアリテイーが滲み出ていて否応なくあの時代に引き戻されましたが、窪庭さんはやはりあの業界の一角を現実に支えておられた方だったのですね。
単に資料をもとにしただけでは絶対に描けない空気感でありあの世界の臭いが濃厚に伝わってきたのには、ちゃんと理由があったわけですね。
体が記憶する時代の空気・・・。
それにしましてもそれを明らかにする今回の筆捌きの凄味・・・。
小説とはまた別の抑制された描写力が醸すそこはかとない迫力に、圧倒されました。
知恵熱おやじ
先に書き忘れたのでもう一言。
写植オペレーターの単なる打ち間違いだったとは!
「××」→「メメ」
いやはや衝撃の真実というやつですね。ぶったまげたー。
知恵熱おやじ
私に、あのころの熱さの100分の1でもあれば、と思わずにはいられません。
熱さを取り戻した小説でした。
ありがとうございました。