雄太は、この日悦子とふたり谷田部の大地に立っていた。
結婚して三十数年、一度は悦子を連れて行きたいと考えていた場所だった。
とくに強いこだわりがあるというわけではない。
ただ、テスト・コース開発現場とシャレードを繋いだ一本の道が、雄太と悦子の心を結んだ運命の道として意識され、いつか二つの基点に足を運ぶことで悦子にもその関係性を感じてもらいたかったのだ。
雄太は未整備の街区を呆然と眺めていた。
ここはかつて彼がランドクルーザーで走り回った土地、正確にいえば、市町村合併により現在は<つくば市>の一部になっている場所だった。
研究学園都市構想が動き出した当初、東京教育大学を移転させ、筑波大学と名称変更した歴史を持つ。
大学移設を手始めに、首都圏から政府関係の研究機関がつぎつぎとこの地に集められた。
研究施設が配置され、コミュニティーが機能し始めてからは、つくば発の研究成果がメディアを通して発表されることも少なくなかった。
都心からのアクセス手段として、鉄道新線の開設が噂されていることも、雄太はけっこう早くから知っていた。
当初2000年ごろの営業開始と聞いていたが、実際には2005年8月24日に<つくばエクスプレス>の開業をみた。
始発駅<秋葉原>でのセレモニーも、テレビニュースで見た記憶がある。
雄太の中に息づく想い出の襞に、喧騒をともなった現実が傍若無人に乗り入れてきた。
不快というのではなく、懐かしさの中にも無理やり犯されるような掻痒感があった。
終点一つ手前の<研究学園駅>が、雄太の青春の一部を埋め込んだ谷田部テスト・コースの敷地内にあることも、何かの報道を見て知っていた。
ニュース画面を見るたびに、内部から火に焙られるような焦燥感を覚えた。だが、忙しさに紛れていつの間にかそのことを忘れた。
そしていま、彼の目前に新駅がある。
<つくばエクスプレス>開業から一年以上経って、やっとこの場へ来ることができた。
思い立って訪れたのではなく、ひょんな成り行きから実現したことだが・・・・。
実はこの日、土浦で行なわれたシャレードのママの告別式に参列してきた。その流れで<研究学園駅>周辺へまわってきたのである。
この時を失しては、原野の記憶すら消えてしまいそうな気がして、悦子に回り道を申し出た。
シャレード時代のエピソードが、悦子の興味をひいたようだ。
「ほら、柳田さんという偉い人と何回か飲みに行ったの憶えてる?」
あの老人には、夜通し飲み続けた記録と、真っ白だったワイシャツが黄色くなったという伝説が残っているんだよ、と。
体から発散するアルコールが、汗とも蒸気とも区別のつかない汚れによって生地を変色させた。
ウワバミと称された老人の酒豪ぶりを悦子に話した記憶があるので、何かしらきっかけになるかと考えたのだった。
「へえ・・・・」
いまは完全にアルコール類を遠ざけている悦子が、複雑な表情で雄太を見た。
「さすがにもう、柳田老人は死んだろうね。・・・・あのころ一緒だった赤羽さんや田代所長は元気だろうか」
一瞬、喧嘩別れした神山の顔も浮かんだが、その男だけは墨で塗りつぶすように感情の筆でぐじゃぐじゃと塗り消した。
ともあれ、悦子は雄太の誘いに同意した。
二人はクルマでこの地にやって来て、いまゆっくりと付近の道路や空地を歩きまわった。
建ち並ぶ堅固なビル群、なぜか場違いな印象を与えるコンビニエンスストア、ガソリンスタンド、ファミリーレストランが後方に見えた。
(ここが、ほんとうにテスト・コース跡地なのか)
初めて目にする<研究学園駅>を、なおも同じ位置から眺めていた。
かすかな疑念を嘲笑うかのように、視界のまっただ中に<つくばエキスプレス>の高架橋が延びていた。
かつての原野だった風景とは異なり、周辺には建売住宅や公共施設、民間金融機関の店舗などが建ち始めていたが、広漠とした視界を切り裂く高架線と銀色の駅舎は、つくりかけの宇宙基地を見るように、ひたすら所在無げに浮かんでいた。
実は、雄太単独でなら1970年代半ばに一度この地を訪れている。
谷田部テスト・コースが、日本自動車高速試験場から、日本自動車研究所(通称JARI)に移管されて五年ほど経った頃のことである。
当時まだオートバイやクルマ中心の漫画で人気を博していた彼は、鈴鹿を始めとするサーキット場をめぐり、日本グランプリなど主だったイベントを取材する中で、谷田部テスト・コースにも立寄っていたのだった。
洞口ユウタの人気漫画は、ハーレー・ダビッドソンで乗り込む『港町シリーズ』が継続していたほか、<サチオ>で注目を集めたサーキットものも、福澤幸雄の事故死によっていったん中断していたが、その後紆余曲折を経て復活し不定期掲載の形で続いていた。
ちょうどその時期、レーシングカーのクラッシュ場面を描く必要から、完成して間のないJARIの衝突実験場でESV公開試験を見学した。
目的は事故による衝撃力の取材だったが、雄太は思い出の現場に足を踏み入れただけで、懐かしさのあまり鼻の奥がツーンと痛みを覚えたのを憶えている。
同行の担当社員は雄太の気持ちなど分かるはずもなく、時速40キロ、50キロと破壊力を増す実験結果に興奮し、写真を撮りまくっていた。
「レーシングカーのシャシーは、これほど脆くはないですからね」
自分たちの関わる世界は一般より優れているのだと匂わすようなニュアンスで、同行者がしゃべりかけた。「・・・・こんな潰れかた、サーキットじゃあり得ませんよね」
たしかにエンジン以外の主要なフレームには、実績のあるマクラーレンなどを採用している。もともと市販車とは出来が違うのだから、当たり前のことだ。
(何を言っているんだか・・・・)
雄太はどこか上の空で、若い社員のことばを拾っていた。
その間にも取材目的はそっちのけで、彼は完成しきったテスト・コースの諸施設に心を奪われていた。
(ああ、あそこはテスト車両の待機所か・・・・)
目新しい施設に感慨を覚えた。
さらに目をを転じて、南北両極に位置するバンクの勇姿を確認すると、おもわず涙が出そうになった。
植栽も、元からそこにあったような貌をして建物に寄り添っている。
地鎮祭まで見届けた管理棟の周辺は、とくに生い茂る常緑樹が光をさえぎって涼しげに静まり返っていた。
(そうだよ、キミのいうとおり・・・・)
同行者の求める答えをうすうす感じ取りながら、的外れな返事を繰り返したような気がする。
谷田部テスト・コースでの取材は、そのときが最初で最後だった。
ほぼ三十年前の出来事である。
断続的に続いたサーキット漫画だったが、海外でのスリリングなF1グランプリレースがテレビで放映されるようになると、急速に需要が減った。
背景一つ取ってみても、モナコ市街や純白のホテル、青い海、横付けされた豪華クルーザーに太刀打ちできるはずもなく、砂漠には砂漠の、山岳には山岳の魅力に爆音の迫力が重なって、観る者のこころを画面に引き寄せて放さなかった。
グラハム・ヒル、ジャッキー・スチュアートの時代を経てアイルトン・セナ、ミハエル・シューマッハらが登場してくると、人気F1ドライバーはアイドル並みのもてはやされ方で迎えられ、マンガ雑誌のスターは自然に影が薄くなっていった。
説明するまでもなく、誰にも理解できる状況の変化だった。
雄太はサーキットものに見切りをつけ、別の出版社の要望もあって『奥の細道シリーズ』を連載しはじめた。
バイクから俳句へ、駄洒落のような転進だが、折からの歴史ブームに乗って絵で見る古典などの企画が注目を集め始めていた。
洞口ユウタの作画能力に注目する編集者がいて、俳句や江戸時代を勉強させられた。蕉門十哲や地方の豪農、名士などの活動などにも通ずる結果となった。
毎回芭蕉の名句をひも解きながらの歴史紀行は、適度な教養志向を刺激して大うけした。
綱渡りの生活ではあったが、表面的に安定した位置を保つことができた。
霧プロを始め、雄太を育ててくれた工房も、それぞれアニメ主体の仕事に変わっていた。
先駆した『虫プロ』の後を追って、マンガ界の構造変化が進んだ面もある。
『鉄腕アトム』以来のアニメ人気は、テレビだけでなく夏休み向け子供映画の制作を通して確実にひろがっていた。
作家が主体的に時代を動かすこともないとはいえない。
しかし、おおむね時代の要請に作家が応える形であったと、雄太は自分の過去を振り返ってそう思うのだ。
漫画のテーマはもとより、これまでの彼の人生だって向こうからやってきたものだ。幸運にも成功の範疇に居られたのは、時代の流れや時の運に恵まれたからだと思っている。
「エッちゃん、一緒に来てくれてありがとう」
比較的に意地を通した人生だったが、悦子を得たことで脱線せずに今日までまっとうな生活を送ることができた。
一人息子も成長し、心臓外科の専門医として患者の信頼を得ているようだ。
(オレの遺伝子が、彼の沈着な判断を支えているはず・・・・)
幼いころから、玩具の裏までひっくり返してみるような好奇心旺盛な子供だった。
対象はちがっても、ものごとの本質を見極めようとする洞察力は親譲りのものと勝手に思い込んでいる。
子育ての大変な部分はすべて妻まかせで、優れた資質や学業の成果だけ自分のものにしてきた。
何もかも分かっていただろうに、ほとんど雄太を責めたことのない悦子の大きさに、あらためて感謝の念を抱いた。
茫漠とした時間の流れが、かすかな風となって雄太の頬を撫ぜた。
(この高架駅を囲んで、日本一の高速周回路が走っていたなんて、本当なのだろうか)
<つくばエクスプレス>の建設にともなって、谷田部テスト・コースは一部の施設だけを残して取り壊されたと聞く。
自動車産業発展のために役割を果たして、次の世代に場を譲ったのだ。
三十年の歳月は、自動車から新鉄道に主役の座を明け渡した。
高雲を抜けてくる光にキラキラと輝く高架駅は確かに存在する。
しかし、同じ場所にかつてあったはずの自動車テスト・コースはその痕跡すら見当たらない。
疑い始めると、現実の風景までが蜃気楼のように思えてくる。
雄太は、道路の端に立ち尽くしたままタメ息をついた。
「あなた、もう少しこの辺りを走ってみたら・・・・」
雄太の心中を察したのか、悦子がうながした。
「そうだな、立派な道路もできているようだから、ひとっ走りドライブするか」
半信半疑のまま谷田部を離れてしまえば、割り切れない気持ちを一生引きずることになる。
おそらく二度と訪れる機会はないだろうし、あったとしても跡地と目される場所は今日以上に開発されてしまうだろう。
雄太は、悦子の言葉に救われたようにクルマに戻った。
エンジンを始動し、北の方向とおもわれる道へ進路をとった。前方のわずかな緑が、彼の目にセンサーとなって反応したせいかもしれない。
数百メートル走ったところで、突然道路がさえぎられた。
(あっ・・・・)
雄太は、進入禁止のフェンスぎりぎりのところでクルマを停めた。
「うわっ、すごい・・・・」
声に出したのは、悦子の方だった。「これが、テスト・コース?」
紛れもなく高速周回路の一部だった。
コースを断ち切るように閉鎖した傷痕が、アスファルトと赤土の断層となって目前にあった。
「ちょっと、中へ入ってみよう」
心配する悦子をクルマに残したまま、雄太は回りこんでコースに立った。
かつて、多くのテストカーやオートバイが走り抜けた高速周回コース。
接地するタイヤと路面のつくり出す擦過音が、いまにも聴こえてきそうな錯覚を覚えた。
錯覚というより、路面に染み込んだ音の周波が、そこに近づきたたずむ者の耳にだけ甦るのではないだろうか。
雄太は夢の中を歩くような足取りで先を目指した。
彼は知っていた。その先に、日々完成を心待ちにしていた傾斜角30度のバンクが横たわっているのを・・・・。
路面に対して直角、見た目には内向きに刺した歯列のように見える飛び出し防護フェンスが、いまも金属製の堅牢さを誇っていた。
さすがに上部点検路を越えてきた葛やその他の蔓植物が、傾斜部の半ばまで垂れ下がっていて、昔日の栄光に翳りを感じさせた。
白色の中心線も、黄色の警告ラインも、まだ生々しい色合いを保って、人間の都合による中断に抵抗しているように見えた。
「ああ・・・・」
声になった。
たくさんの労働者や指揮官が右往左往したプロジェクト。資金と労力を注いで作り上げた施設が、落成祝賀の思い出を取り残して無残に破壊されていた。
こうなると、竣工に立ち合えなかった雄太は、むしろ仕合わせなのか・・・・。
理屈では割り切れない喪失感が、走路に立つ足もとから這い登ってきた。
振り返ると、クルマの助手席から降りた悦子が心配そうに雄太の居る方向を見つめていた。
その後方に、<つくばエクスプレス>の高架橋が見え隠れしていた。
「おーい、いま行くよォ」
雄太は、悦子に向かって大きく手をふった。
青春の夢の欠片を拾い集めて、雄太はテスト・コースに別れを告げた。
(完)
(以下の資料を参考にさせていただきました)
「貸本マンガ史研究」季刊13,14,15号
「貸本マンガ RETURNS]
「美術手帖」(劇画特集)
「ガロ曼荼羅」
長い間、楽しませてくれてありがとうございます。
精読させてもらったおかげで、クルマ社会の前衛となった数々の場面や人々、飛んでマンガ界の隆盛と衰退、それらがビビッドに描き出されていました。作者の懐の深さを再認識させられた思いです。
そして、30年余りの年月、そこに主人公の青春と一種の結末が表れており、当然、おのれのそれとも照らし合わせて考えさせられましたよ。
その間、〈つくばエクスプレス〉の出現なんて最も象徴的な事象なのでしょう。こうしてこの小さな国は暴力的とも思えるほど進化または退化させられてきたわけです。
いや、まさに"窪庭文学"に酔わせてもらいました。
いつもコメントありがとうございます。
同じ時代を生きた親近感が感じられ、たいへんうれしく思います。
振り返ると、さまざまの矛盾や理不尽を抱えつつも、個人がのびのびと生きられた時代でした。
現在の閉塞した状況は、いつ、どのように変わっていくのでしょう。
お互い元気で、見届けましょう。