「自動起床装置のいま」
(辺見庸の仕かけたもの)
二十数年ぶりに、辺見庸の芥川賞受賞作を読み返してみた。
今回よかったのは、新風舎文庫版の『自動起床装置』を手に入れることができた点である。
何がよかったかというと、ぼくが最初に読んだ「文学界」(1991年5月号)だけでは知りえなかったさまざまのことが投げ込まれていて、少しだけ理解が進んだような気がするのである。
理由の一つは、芥川賞受賞後に組まれた日野啓三と辺見庸の特別対談の再録であり、第二は新風舎文庫(2005年2月刊)に寄せた著者のあとがきであり、第三は東京新聞記者である中村信也氏の解説である。
新風舎という出版社は事情あって既に無く、どんな形であれこの文庫を残してくれたことは有難かった。
因みに自動起床装置の手がかりは中村氏の解説のなかにあり、調べてみると辺見庸を起こした当時より進化した新型起床装置を販売していて、現在も多方面で貢献しているようである。
もともとは旧国鉄の運転手や車掌、駅員等を起こすために開発依頼されたそうで、鉄道ダイヤ確保のために空気送風システムを用いたアイデア商品として発明特許を得たらしい。
評判になったのは、2000年の東京開催「国際発明展」で銀賞に選ばれてからということで、辺見庸はその十年も前に共同通信社で初期モデルを使用していたということになる。
ただし、眠りと仕事の関係、人間性と文明の相克についての命題は、装置の進化によって変化するものではない。
まして、この受賞作に秘められた重要な謎、「植物は思惟する意識する」(特別対談)で語られる植物についての薀蓄は、作中に登場するパンヤンジュという南国の大木がもたらす妖しさが誘因したものだ。
「ベトナムあたりの植物は非常になまめかしいでしょう。」(日野)
「気根はニョロニョロいつも動いている感じがします。」(辺見)
「また家全体が有機物ですね。ハノイあたりの古ぼけた家々は、地中から生えてきた茸のようにも見えるわけです。じゃ、ひとは動物かというとぐったりしてそうも見えない。一日でものすごく伸びる蔦類のほうが生命力に富む感じがする。・・・・植物は思惟していて当然の風景でしたね。ひどく悪いことを考えているような樹木もあります。古い家も何かを考えている気配がある。」(辺見)
「木によっては近くの木を枯らす気体を出すぐらい、結構あの連中も激しいという説もある。」(日野)
(ぼくの北軽井沢での経験からも、山椒のまわりの植物はみな顔をそむけ、ほうっておくと遂には枯れてしまう)
(まちがいなく、山椒は他を駆逐して自分が生き残ろうとする意志を持ち、悪いガスを出している)
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作品そのものについては、新風舎文庫(2005年2月刊)のコピーがわかりやすい。
「・・・・眠りの世界ではいろいろなことが起きる。辛くて、狂おしくて、他愛なくて、突飛で、情けなくて・・・・もう、すべてなんて言葉でおおえないほどすべてのことが起きる」
ぼくと聡は、通信社の仮眠室で仮眠をとる人々を、快く目覚めへと導く「起こし屋」のアルバイトをしている。ところがある日『自動起床装置』なるものが導入された・・・・。
眠りという前人未到の領域から現代文明の衰弱を衝いた芥川賞受賞作。カンボジアの戦場への旅を描いた「迷い旅」と、巻末には日野啓三氏との対談も併録。
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辺見庸は「あとがき」のなかで、<・・・・ところで、たしか『自動起床装置』を書いているまさにそのときだったと記憶するのだが、第一次湾岸戦争が勃発し、外信部のデスクだった私は家にも帰れないほどの猛烈な忙しさと緊張を強いられることになる。連夜、宿直室でほんの短い仮眠をとっては自動起床装置によって目覚めさせられ、慌ただしく仕事をしたものだ。・・・・湾岸戦争と自動起床装置。見たところ何の関係もなさそうな極大と極小のこの二つは、右のような経験が然らしめるのであろうか、当時の私の気分のなかでは、‘合理的暴力‘という意味合いでほぼ同質のことがらと物体なのであった。・・・・>と記している。
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だが、作者はもう一方で植物の存在を巧みに織り込み、小説の重層化、深遠化に成功している。(と、ぼくは思う)
植物には未知の部分も多く、謎として長く読者を惹きつける要素となっている。(と、思う)
解説によれば、この作品の「眠ること」や、『もの食う人びと』の「食べること」、他に音とか匂いといった身体感覚が辺見庸の作品の基幹に据えられているという。
手にするメスの鋭さにもたじろぐが、『ナイト・トレイン異境行』以来の言語感覚、鍛え方に帰依したくなってしまうほどだ。
まあ、久しぶりの調教馬が焦れ込むようなものだから、大目に見てもらうしかない。
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<参考>
日野啓三と辺見庸による特別対談(新聞言語と小説言語の狭間で)より
(対談の二人はともに通信社の外報部に所属し、特派員としてそれぞれベトナムやカンボジア行きの経験を持つ。在籍時の大ニュースとしては前者がキューバ危機、ケネデイ大統領の暗殺、後者がベトナム戦争終結、湾岸戦争勃発と熱く生々しい事件報道の渦中にあった)
それぞれの言語認識、存在への嗅覚、同じ二足のわらじを履いた経験から吐露される言葉の共鳴、発せられてから二十年も過ぎているのに未だ色あせない魅力を、ほんの一部だけでも抜き出してみる。
「外報面は新聞界の純文学である」
辺見 <しかしこれは冗談ですが、もともと外信面、外報面は新聞界の‘純文学‘ではないかと思っているんです。あまり、人に読まれないという共通点。>
日野 <視聴率がたかくないのは確かに。(笑)>
日野 <万事がうまくいってるときは必要ないかもしれないが、思いがけない不幸や孤独に遭ったとき、純文学の文章こそ身にこたえるはずです。>
辺見 <いわゆる純文学は、株で儲かって、体の調子がよくて、奥さんとうまくいってればそんなに読むことの必要性はない分野ではありますねえ。>
「人間にとって小説は必要か」
辺見 <ですから、どうなんでしょうか。平穏無事でそれで主観的に非常にハッピーな生活をおくっている人々を脅かすような小説というのは。実は我々はちっとも幸せじゃないんだと主張する小説の出現ですねえ。>
日野 <さして面白くもないことをぼそぼそ五枚、十枚と仕上げるのに何日も何週間もかけている変な奴が、この社会のどこかにいると、頭の中にちらりとどめてくれればいい。どうしていいか判断不能のときに読んでくれたら十分です。普段なら避けられる穴にたまたま落ち込んでしまった。その際に自分で考え抜く言葉、又は考えるリズムを示唆するのが純文学だと思います。>
(日ごとに生産され、悪臭を振りまく新聞や雑誌の記事。反省も正義もなく鉄面皮をなでおろす、一部のジャーナリスト(?)たち。
為政者とまぐわう報道界の生態に、もう声高に叫ぶ気力もなくしたという人がいる一方、何十年にわたって言葉の鍛錬に努める者もいる。
量産される言葉の死骸を掻き分けて、生き延びた神経のような言葉に再会するのは実に楽しいものである。)
(おわり)

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