(作詞でもしてみようか)②
ぼくの家族は東京下町の住民だったが、線路わきに避難道路をつくるからと強制疎開させられ、汽車で二時間ほどの農村に移り住むことになった。
父の仕事は国鉄の職員であったが、K駅の助役を最後に退職し、遠い親戚を頼って家族をその地に連れてきたのである。
春まだきのある一日、最寄り駅から二里ほどの道のりを、家財道具を積んだ牛車とともにぼくらは疎開先に向かった。
住まいとして与えられたのは、母屋とは別棟の飼蚕小屋だった。
すでに養蚕をやめていたのか、あるいは時期的に空いていたのか、とにかく部屋の半分ほどが飼蚕棚に覆われていた記憶がある。
それでも、落ち着き先を得た安堵からか、ぼくは自己流の踊りを披露して受け入れ先の歓心を買おうとしたようだ。
子供なりに家族の置かれた立場を感じ取り、関係を良好に保ちたいという「らしからぬ」動機がそうさせたらしい。
この歳になっても、当時の記憶をたどると恥ずかしさが立ち昇って来る。
一口でいえば、ぼくはいやな子供だったと言える。
そうしたトゲが胸に刺さっているにもかかわらず、疎開は父の絶妙の判断だったと思っている。
あと二週間躊躇していれば、3月10日の大空襲に見舞われていたはずだからである。
無数の焼夷弾が落とされた夜、西の空が真っ赤に染まるのを、ぼくらは呆然と見守った。
明け方おしっこに起こされたときも、空は昨夜の続きのように赤く染まっていた。
命拾いをしたものの、ぼくらは疎開者と呼ばれ、さまざまの困難に遭遇した。
ただし、そのことが悪い思い出になっているわけではない。
同じような境遇の人たちは、多かれ少なかれ不自由な生活を強いられたものである。
立場が変われば、当然位相もちがってくるはずで、それだからこそぼくらの成長も促されたのだから。
ここで詳しく触れるつもりはないが、父は農協に職を得て家族を養い、母は慣れない畑仕事に精を出して乏しい家計を助けようとした。
ぼくが小学生になったころ、家の軒下や急ごしらえの小屋を利用して、鶏、兎、そして山羊を飼って、鶏卵や食肉、毛皮、乳製品などを入手していた。
産みたての卵を掌に載せたときの温かい感触、捌いた鶏や兎の鮮やかな肉の組織とともに、母山羊の乳房から絞り出した乳のトロリとした味が忘れられない。
やがて母山羊は仔を産み、ぼくは無邪気に餌やりを続け、盲目的に可愛がった。
そうして二年目の秋、思いがけない事態に遭遇する。
歌詞は、母山羊との別れを記したものだ。
『かあさんヤギの歌』
山の上から秋が来て 紅いトンボをつれてきた
畑のだいこん引きぬいて 葉っぱをヤギに食べさせた
ヤギのかあさんよろこんで 赤い目玉をうるませた
お乳をプックリふくらませ 二匹のこやぎにふくませた
町のほうから人が来て かあさんヤギをつれてった
アカネ群れとぶ田舎道 こやぎはメエメエ追いかけた
かあさんヤギは振りかえり 別れはいやだと泣きさけぶ
空までとどく悲しみに ぼくはこぶしを震わせた
秋が来るたび思いだす かあさんヤギの高い声
いつかわかると顔伏せた 母もいまでは空の上

「かあさんヤギの歌」、簡潔ながらも親子の愛情と悲哀を偲ばせる簡潔な詩。
読んでいて場面が目に浮かんでくるようです。
なぜ、連れていかれたかの説明は不要でしょう。
悲しがる親と子の心情が分かるだけでも。
それにしましても、作者の出自を初めて知るにいたりました。
「ヤギの歌」と関連させたのでしょうか。
そうてあっても、なくても、親子の情愛がふんわりと伝わってきました。
このような詩作も、すべりだし上々ですね。
しかし、詞が短すぎるとどうしても空白を埋めたくなっちゃうんですよね。
応援ありがとうございました。