どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

<おれ>という獣への鎮魂歌 (30)

2006-05-11 12:03:42 | 連載小説

 次の日も、その次の日も、連絡はとれなかった。
 おれは、焦燥の真っ只中に置かれていても、たたら出版への出勤を止めることはなかった。
 理由は判っていた。
 一字、一字、写植の文字を打ち込んでいる瞬間だけは、苦しさを忘れていることができたからだ。
 それでも、昼休みの休憩に入ると、おれは信号ひとつ分、九段下方向へ歩いて、雑貨屋の角にある電話ボックスまで、電話をかけに行った。
 何度ダイアルを回しても、受話器が取られることはなかった。
 昼だけではなく、夜も同じことをした。
 仕事が終わると、帰りがけに、あっちこっちで電話をかけた。
 飯田橋で電車に乗る前にかけ、新宿では乗り換えの合間に鉄道弘済会の売店に走って、電話機を確保した。
 そうしていないと、ミナコさんの存在が、おれの目の前から永久に消えてしまいそうな恐怖を覚えるのだ。
 呼び出し音が鳴っている間は、まだ繋がっていると思えた。あの、やさしい音色には、ミナコさんの心が乗り移っていると、おれは、信じたかった。
 ある日、ツーンという音に変わったら、わずかな希望も断たれることになる。
 駄目を押されたとき、おれは、果たしてどんな行動をとるだろうか。
 いくら考えても、纏まらなかった。
 おれは、この日、中野駅の公衆電話の前にぼんやりと立っていた。ここの、剥き出しの電話機が、おれには一番向いているのだ。
 ボックスの中に取り込まれていると、奇声を発して狂ってしまいそうな気がする。その点、三つ並んで置かれた駅の電話なら、いつでも他人の気配を感じていることができ、世間の交雑した話題のなかに自分を紛れさせることができる。
 悲喜こもごもの出来事も、一歩離れて眺めれば、ラジオから定時に流されるニュースのように、さほど心に留まることはないのだ。
 折りしも、一つ置いた公衆電話で、二十歳ぐらいの女性が駅前広場の方を眺めながらしゃべっていた。
「こっちは、寒いといっでも大したことはねえよ。それより、雪降ろしで死んだり怪我しだりする人のニュースが多いから、じいちゃんにも気を付けるように言ってよね・・」
 おれの方に背を向けることで、彼女の周りには別の世界が出来あがっているようであった。
 アパートに戻ると、まず、郵便受けを探った。
 チラシの下に、通常より細身の封書が挟まっていた。
 おれは、ハッとしてあたりを見回し、封筒を隠すようにコートに押し付けて、部屋に入った。
 ミナコさんからの手紙だった。名前だけで、住所が記されていなかった。切手に残された消印を確かめると、わずかに<仙・・>という文字が読み取れた。
 そうか、田舎にでも帰る途中で出したのかと、不安が少し薄らぐのを感じた。うれしさの反面、別のおそろしさに心が揺れた。
 封を切るのに、覚悟が要った。息を整えて、手紙の端に鋏を当てた。
 力を籠めると、封筒の切れ端が、こよりのように捩れた。
 それが、たった一本の、希望をつなぐ糸に見えた。
 おれが鋏を閉じきってしまえば、切断された紙屑が、いたずら小僧のように飛ぶだろう。人間の困惑などには何の関心も示さず、ケラケラと笑って次の興味にスキップしていくのだ。
 おれは、寸前で鋏を止めた。
 わずか五ミリで封書の端にとどまった紙切れが、おれに、次の行為をうながした。
 手の中の封書をたわめると、歪んだ隙間ができた。いくつかに折られた便箋が、暗がりの奥に潜んでいた。
 指で引き出しながら、封筒を傾けると、薄紙で包まれたカギが滑り出てきた。手に当たって畳に落ちたものを、おれは、呆然と眺めていた。
(戻るつもりは無いんだな)
 文面を見る前に、ミナコさんの意志が示されていた。
 それでも、手紙を読み始めると、ミナコさんの肉声が聞こえてきた。
 おれを労わり、彼女自身の辛さを堪えながら、おれの前から姿を消した理由を述べていた。
「・・あの日、社長を追い払ったあと、あなたは自分でも抑えきれないほどの怒りを、もてあましていたわ。ベッドに投げ出されたとき、わたしは、そのことに気が付いたの。あなたが、彼だけを憎んで、わたしを許すなんてことはできっこないもの」
 おれは、頭の中心から血の気が引くのを覚えた。
「悲しかったけど、それは当然のことよ。あなたは、間違ってなんかいないわ。わたしが、錯覚していただけなの。・・だから、自分を責めたりしないでね」
 一瞬にして、甦るものがあった。おれが、ミナコさんを引き戻し、ベッドの横にひざまずかせたとき、振り返りかけたミナコさんの、なにかを訴えるようとする気配・・。おれに背中を押さえられ、強引に制せられたときの無念の思いが、いまになって見えてくる。
 獣のかたちで、下着ごとジャージを引き下ろされたミナコさんの屈辱など、あのとき、おれの頭の中には欠片もなかったのだ。
 まして、シーツの上に、おれの邪念を撒き散らすとは・・。おれの意図したことを、どれだけ説明してみても、納得させることはできない。ミナコさんと、おれの間では、起こりえない出来事が起こったのだ。
 おれの怒りが、ミナコさんに向かっていたと思われても仕方がない。憎しみが、ミナコさんに及んでいたと言われても、弁解のしようがない。
 荒々しく犯すことで、ミナコさんを清めるなどと思い上がったおれの不遜さが、彼女には丸見えになっていたのだ。
 おれは、呻き、頭をかきむしった。
 単に、おんならしく装っただけのミナコさんに刺激されて、珍奇なトカゲを取り押さえるように襲い掛かった自分の卑劣さが、耐えられなかった。
「でも、あのとき、罰してもらってよかったわ。わたしに罪があるのは、明らかだもの。・・あなたは、男として逞しく生きていける。そのことを、確信できたのもよかったわ」
 ミナコさんの語りかけが、耳元をくすぐるように流れていた。
「いつまでも、わたしなんかに係わっていてはいけない・・。あなたのことを、ほんとうに愛しているから言えるのよ。あのまま、あなたのアパートに転がり込んでいたら、どうなったと思う? ふたりとも、惨めな結果が待っているだけよ」
 嫌だ! いやだ!
 おれは、心のなかで二度叫んだ。
 ひとつは、おれが犯した穢れた行為への嫌悪感であり、もうひとつは、なにがあってもミナコさんを失いたくない悲痛な叫びだった。
(神様・・。どうか、許してください)
 おれの脳裏には、白山神社の社殿が浮かんでいた。すがたは見えないが、ひかりを避けて長いあいだ息をひそめている浄化の神に向かって、生涯一番の願いを訴えかけた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 おれは、ミナコさんの手紙を胸に押し当てて、許しを乞うた。
 どれほどの悲しみを与えてしまったかと、ミナコさんの心中に思いを馳せて嗚咽した。
 畳の上に直に倒れこんで、つかの間、眠り込んだようだ。うつぶせになり、顔を囲った腕にも、背中にも、急な冷えが回ってきた。
 寒いと気が付いたが、再び眠りに落ちた。連日の疲れもあったのだろうが、そのとき、おれは、自分を罰する気持ちに強く囚われていたようだ。
 夜中に熱がでた。
 気管支の奥から、乾いた咳が上がってきて、コホコホとおれの頭蓋に反響した。昔の小説家のように、結核に侵されて弱々しい咳をすることに憧れた時期もあったが、おれが引き寄せた病魔は、もっと急激で、過激だった。
 ミナコさんに与えてしまった苦しみは、この程度の罰では償えない。ひとの尊厳に係わる重い罪であることを、おれは悪寒のなかで自分に言い聞かせた。
 このまま、高熱にうなされながら、ミナコさんの名前を呼び続け、ついに息絶えてしまう自分を想像した。
 だが、喉の渇きに耐えかねて、おれはフラフラと立ち上がった。
 電気ポットから、湯飲み茶碗に湯冷ましを注ぎ、喉を鳴らした。水が食道を通過していくと、間歇的に震えが起こった。
 押入れから、布団を引きずり出し、そこにもぐり込んだ。誰にも頼れない、長い夜が始まろうとしていた。

   (続く)
 
 
  


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