翌週、おれは、たたら出版に出勤し、残業も含めてくたくたになるほど働いた。
ミナコさんが会社を辞めることになれば、アパートの家賃をはじめ、ふたりが当面暮らしていくための生活費を確保しなければならない。
中野のアパートは、狭いとはいえ二部屋あり、バストイレ付きの所帯用だから、おれの給料から捻出するにはなかなか大変な金額だった。
自動車内装会社社長をあれだけ痛めつけたのだから、ミナコさんは当然辞めることになる。そうすれば、ミナコさんからの援助は、すぐにも途絶えてあたり前だった。
その上、新婚まがいの生活をするのだから、おれの肩にかかる負担は想像を超えたものになりそうだった。
(一生懸命働けば、何とかなるだろう)
おれは、急に現実味を帯びてきた不安を吹き飛ばすように、首を振った。
週末になって、おれは、ミナコさんが現れるのを、ぼんやりと待っていた。いつも、土曜日の晩に来ることが多かったので、この日は定刻に仕事を切り上げて、家で待っていたのだ。
ところが、九時を過ぎても、ミナコさんは現れなかった。
変だなと思うと同時に、胸を錐で刺されるような痛みを感じた。何が起こったかは分からないが、おれの予測しなかった事態が進行していることは、予感できた。
「なんという間抜けだったんだろう」
おれは、自分を罵った。
あの日、ミナコさんの言葉に従って、ミナコさんをひとりにしたのが間違いだった。強引と思われても、白山上のマンションに泊まり込むか、中野のアパートに連れて来るべきだった。
それだけではない。ミナコさんの勤めも直ちに辞めさせるべきだった。
あれほどの屈辱を与えた自動車内装会社社長の元へ、ミナコさんをひとりで向かわせたのは、あまりにも無謀なことであった。
おれは、おれの迂闊さを繰り返し悔やんだ。
ミナコさんを手中にし、奴に対して完全に主導権を握ったと思ったことが、もしかしたら独善だったのか。耳に吹き込んだ貶めのコトバまでもが、一転して不安の種になっていた。
身支度をして、外に飛び出した。
国鉄中野駅へ急ぐ途中、公衆電話ボックスを見つけたが、若い男の先客がいて、一向に終わりそうにもない姿勢で占拠していた。
わずか一分でも、電話の終了を待ったことが、腹立たしかった。ボックスのガラスに寄りかかったまま、笑ったり、うなずいたりしている男の後頭部を、いきなり鉄槌で殴ってやりたい衝動に駆られた。
そういえば、多々良社長から借りた『夢野久作全集』のなかに、そんな小説があったのを思い出した。たしか、禿頭を見ているうちに鉄槌を振るいたくなる話で、脈絡も無く引き出される殺意の不思議に、愕きを覚えたものだ。
それとは比較にもならないが、おれの苛立ちが、見ず知らずの若者に殺意を感じるほど嵩じていたことは否めない。
中野駅の公衆電話で、おれは、やっと電話をかけることができた。
軽やかな呼び出し音が、いつまでも続いた。おれが、初めてミナコさんに電話をかけたときの音色と同じだった。
あのときは、ミナコさんがすぐに出た。はい、もしもしと、優しい声を聞かせてくれた。
だが、この夜は違った。いつまでも受話器が外されることはなく、呼び出し音だけがマンション内部のしじまを掻き乱していた。
留守なのは、明らかだった。
おれの焦りも頂点に達していた。
出札口で、巣鴨駅までの切符を買い、ちょうど入ってきた総武線に駆け込んだ。上りの各駅停車は、さすがに混んではいなかったが、スタートといいブレーキといい、嫌がらせをされているのかと思わせるほど、動きが鈍かった。
(そういえば、あの三一書房の全集にも、どこかで係わりがあったと多々良が言っていた・・)
焦りの真っただ中で、おれはまったく見当外れのことを考えていた。何年前のことかは分からないが、本の装丁か、カバーのデザインか、あるいは宣伝用のコピーか、どこかの工程で関係したからこそ、多々良が『夢野久作全集』を持っていたのだと、あらためて思い返していたのだ。
「社長、この本ぼくに売ってくれませんか」
「ほう、気に入ったのかね。だが、いまのところ無理だね。一応、わが社の仕事のサンプルだから、歌集やなんかと一緒に展示したいのでねえ」
そこで、話は消滅していたのだ。
どんなにささやかな業績でも、それに携わった人には忘れがたい記憶となっている。多々良が、あっさりと、おれに譲り渡さなかったことが、いまになって、よく理解できた。また、それだからこそ、これからも益々信頼できる人物なのだということを、再認識していた。
全集は、神田の古本屋で手に入れた。
古本にしては、結構いい値段が付けてあった。
発行部数も少なかっただろうし、知る人ぞ知るといったマニアックな作家だったから、発売当時から人気があったのだろう。
あれこれ、思考が横道に逸れている間に、新宿に着いていた。
おれは、山手線に乗り換えるべく、反対側のホームに移動した。ふと、自分がどこへ行こうとしているのか、判然としない瞬間があった。
行っても居ないと分かっているところへ、なぜ向かうのか。やや回復した理性のもとで、おれは自分に問い返した。
不在なら、まず、それを確認する。ミナコさんのマンションに、人の気配が無いことを納得しなければ、気持ちが治まらない。
うまくすれば、なにかの事情で遅く帰ってきたミナコさんと、遭遇できるかもしれない。付きまとわれることを嫌うミナコさんに、たとえ疎まれようと、今夜に限っては待ち伏せする以外に方法がないのだ。
巣鴨駅前から、タクシーに乗った。おれとしては、異例の出来事だった。
真冬にしては貧弱な防寒具しか身につけていなかったが、おれは深夜までミナコさんのマンションを張った。
やがて、惨めさに打ちのめされて、白山通りまでさまよい出た。坂を下ってくる風が、襟を立てたコートの隙間を狙って、おれの喉元にヒューヒューと吹きつけた。
タクシーを拾って、巣鴨まで戻った。
なんとか終電に間に合って、中野駅まで辿りついた。
久しくご無沙汰していた屋台の焼き鳥屋で、にわかに意識された空腹感をなだめた。いつまでも帰りそびれている客の一人が、馴れ合うようにちょっかいを掛けてきたが、おれがまともに顔を向けると、慌てたように目を逸らした。
しこたま日本酒を飲んで、アパートに戻った。
ミナコさんには、合鍵を渡してある。
もしや、入れ違いに、おれのもとを訪れてはいまいかと、一縷の望みを抱いたが、期待は敢え無く潰えた。
おれは、押入れから布団を引きずり出し、着替える気力も無く倒れ込んだ。
一瞬、頭脳の片隅に灯りが点いて、目覚まし時計のセットをおれに促した。時刻は、七時のままで良い。どんなに眠くとも、遅刻することなく出勤せよと、眠りに落ちていきながら、言い聞かせる自分がいた。
夢の中で、奴が泣いていた。
あぶちゃんを着け、おしゃぶりを銜えた大男が、ベビー服から出た生身の足をバタつかせて、ダダをこねているのだ。
傍らには、誰かが居るのだが、顔を隠しているので、はっきりと見定めることはできない。
肩までかかる髪を、うなじの辺りで束ねている。古風な髪形から連想される女性は、母の象徴にも思われた。奴のはは。鶯谷のはは。それとも、別の風俗のはは。 あるいは、ミナコさん?
やさしさゆえに、そんな役までして・・と、悲しみのなかで、おれも泣きたくなる。あまりにもリアルな感覚にはっとして、おれは眠りの底から急浮上する。点けっぱなしの蛍光灯が、おれの荒廃の様子を真上から照らし出していた。
(続く)
ミナコさんが会社を辞めることになれば、アパートの家賃をはじめ、ふたりが当面暮らしていくための生活費を確保しなければならない。
中野のアパートは、狭いとはいえ二部屋あり、バストイレ付きの所帯用だから、おれの給料から捻出するにはなかなか大変な金額だった。
自動車内装会社社長をあれだけ痛めつけたのだから、ミナコさんは当然辞めることになる。そうすれば、ミナコさんからの援助は、すぐにも途絶えてあたり前だった。
その上、新婚まがいの生活をするのだから、おれの肩にかかる負担は想像を超えたものになりそうだった。
(一生懸命働けば、何とかなるだろう)
おれは、急に現実味を帯びてきた不安を吹き飛ばすように、首を振った。
週末になって、おれは、ミナコさんが現れるのを、ぼんやりと待っていた。いつも、土曜日の晩に来ることが多かったので、この日は定刻に仕事を切り上げて、家で待っていたのだ。
ところが、九時を過ぎても、ミナコさんは現れなかった。
変だなと思うと同時に、胸を錐で刺されるような痛みを感じた。何が起こったかは分からないが、おれの予測しなかった事態が進行していることは、予感できた。
「なんという間抜けだったんだろう」
おれは、自分を罵った。
あの日、ミナコさんの言葉に従って、ミナコさんをひとりにしたのが間違いだった。強引と思われても、白山上のマンションに泊まり込むか、中野のアパートに連れて来るべきだった。
それだけではない。ミナコさんの勤めも直ちに辞めさせるべきだった。
あれほどの屈辱を与えた自動車内装会社社長の元へ、ミナコさんをひとりで向かわせたのは、あまりにも無謀なことであった。
おれは、おれの迂闊さを繰り返し悔やんだ。
ミナコさんを手中にし、奴に対して完全に主導権を握ったと思ったことが、もしかしたら独善だったのか。耳に吹き込んだ貶めのコトバまでもが、一転して不安の種になっていた。
身支度をして、外に飛び出した。
国鉄中野駅へ急ぐ途中、公衆電話ボックスを見つけたが、若い男の先客がいて、一向に終わりそうにもない姿勢で占拠していた。
わずか一分でも、電話の終了を待ったことが、腹立たしかった。ボックスのガラスに寄りかかったまま、笑ったり、うなずいたりしている男の後頭部を、いきなり鉄槌で殴ってやりたい衝動に駆られた。
そういえば、多々良社長から借りた『夢野久作全集』のなかに、そんな小説があったのを思い出した。たしか、禿頭を見ているうちに鉄槌を振るいたくなる話で、脈絡も無く引き出される殺意の不思議に、愕きを覚えたものだ。
それとは比較にもならないが、おれの苛立ちが、見ず知らずの若者に殺意を感じるほど嵩じていたことは否めない。
中野駅の公衆電話で、おれは、やっと電話をかけることができた。
軽やかな呼び出し音が、いつまでも続いた。おれが、初めてミナコさんに電話をかけたときの音色と同じだった。
あのときは、ミナコさんがすぐに出た。はい、もしもしと、優しい声を聞かせてくれた。
だが、この夜は違った。いつまでも受話器が外されることはなく、呼び出し音だけがマンション内部のしじまを掻き乱していた。
留守なのは、明らかだった。
おれの焦りも頂点に達していた。
出札口で、巣鴨駅までの切符を買い、ちょうど入ってきた総武線に駆け込んだ。上りの各駅停車は、さすがに混んではいなかったが、スタートといいブレーキといい、嫌がらせをされているのかと思わせるほど、動きが鈍かった。
(そういえば、あの三一書房の全集にも、どこかで係わりがあったと多々良が言っていた・・)
焦りの真っただ中で、おれはまったく見当外れのことを考えていた。何年前のことかは分からないが、本の装丁か、カバーのデザインか、あるいは宣伝用のコピーか、どこかの工程で関係したからこそ、多々良が『夢野久作全集』を持っていたのだと、あらためて思い返していたのだ。
「社長、この本ぼくに売ってくれませんか」
「ほう、気に入ったのかね。だが、いまのところ無理だね。一応、わが社の仕事のサンプルだから、歌集やなんかと一緒に展示したいのでねえ」
そこで、話は消滅していたのだ。
どんなにささやかな業績でも、それに携わった人には忘れがたい記憶となっている。多々良が、あっさりと、おれに譲り渡さなかったことが、いまになって、よく理解できた。また、それだからこそ、これからも益々信頼できる人物なのだということを、再認識していた。
全集は、神田の古本屋で手に入れた。
古本にしては、結構いい値段が付けてあった。
発行部数も少なかっただろうし、知る人ぞ知るといったマニアックな作家だったから、発売当時から人気があったのだろう。
あれこれ、思考が横道に逸れている間に、新宿に着いていた。
おれは、山手線に乗り換えるべく、反対側のホームに移動した。ふと、自分がどこへ行こうとしているのか、判然としない瞬間があった。
行っても居ないと分かっているところへ、なぜ向かうのか。やや回復した理性のもとで、おれは自分に問い返した。
不在なら、まず、それを確認する。ミナコさんのマンションに、人の気配が無いことを納得しなければ、気持ちが治まらない。
うまくすれば、なにかの事情で遅く帰ってきたミナコさんと、遭遇できるかもしれない。付きまとわれることを嫌うミナコさんに、たとえ疎まれようと、今夜に限っては待ち伏せする以外に方法がないのだ。
巣鴨駅前から、タクシーに乗った。おれとしては、異例の出来事だった。
真冬にしては貧弱な防寒具しか身につけていなかったが、おれは深夜までミナコさんのマンションを張った。
やがて、惨めさに打ちのめされて、白山通りまでさまよい出た。坂を下ってくる風が、襟を立てたコートの隙間を狙って、おれの喉元にヒューヒューと吹きつけた。
タクシーを拾って、巣鴨まで戻った。
なんとか終電に間に合って、中野駅まで辿りついた。
久しくご無沙汰していた屋台の焼き鳥屋で、にわかに意識された空腹感をなだめた。いつまでも帰りそびれている客の一人が、馴れ合うようにちょっかいを掛けてきたが、おれがまともに顔を向けると、慌てたように目を逸らした。
しこたま日本酒を飲んで、アパートに戻った。
ミナコさんには、合鍵を渡してある。
もしや、入れ違いに、おれのもとを訪れてはいまいかと、一縷の望みを抱いたが、期待は敢え無く潰えた。
おれは、押入れから布団を引きずり出し、着替える気力も無く倒れ込んだ。
一瞬、頭脳の片隅に灯りが点いて、目覚まし時計のセットをおれに促した。時刻は、七時のままで良い。どんなに眠くとも、遅刻することなく出勤せよと、眠りに落ちていきながら、言い聞かせる自分がいた。
夢の中で、奴が泣いていた。
あぶちゃんを着け、おしゃぶりを銜えた大男が、ベビー服から出た生身の足をバタつかせて、ダダをこねているのだ。
傍らには、誰かが居るのだが、顔を隠しているので、はっきりと見定めることはできない。
肩までかかる髪を、うなじの辺りで束ねている。古風な髪形から連想される女性は、母の象徴にも思われた。奴のはは。鶯谷のはは。それとも、別の風俗のはは。 あるいは、ミナコさん?
やさしさゆえに、そんな役までして・・と、悲しみのなかで、おれも泣きたくなる。あまりにもリアルな感覚にはっとして、おれは眠りの底から急浮上する。点けっぱなしの蛍光灯が、おれの荒廃の様子を真上から照らし出していた。
(続く)
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