どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

どうぶつ・ティータイム〈232)『気まぐれの長谷寺散歩』

2019-10-03 02:26:16 | 歴史散歩

  

     長谷寺正面

   

おなじみの長谷寺を覗いてみた。天気がいいので、つい足を延ばしたというところ。

何度か行った記憶はあるが、いざ中に入るとなんとなく見慣れない感じがする。

順路の立て札に導かれて回ったので、他人任せのような気分がぬぐえない。

 

     大仏・小仏

 

如意輪菩薩なのかなあ、錫杖を持った仏様が迎えてくれたのだが、足元の小さな仏たちがなんとも痛々しい。

供養のために設置したのだろうが、まるで将来のクローン人間を見るようだ。(ごめん)

例えば山寺の参道に並んでいるお地蔵さんなどは、初めから表情が違っていて親しみやすいが、この小仏たちは苔むす姿が想像できない。

 

     絵馬

 

願いごとを書いて奉納する絵馬も、これほど大量に並んでいると仏様が見切れないのじゃないかと心配になる。

整然と肩を連ねているところは、運動会で中学生が規律正しく並んでいるような感じだ。

どこかに不規則性が混ざっていると、気分が和むのだが。

 

     ハスと鯉

 

その点、いくつかある池の無造作なたたずまいはほっとさせてくれる。

蓮の葉っぱがひ弱だが、むしろこんな風体がいい。

小型の緋鯉が泳いでいたので、水は適度の浄化がなされているのだろう。

 

     放生池

 

放生(ほうじょう)とは捕らえた魚や鳥を放してやること。

放生会(ほうじょうえ)は、供養のために、捕らえた生き物を池や野に放してやる法会。

殺生戒に基づくもので、奈良時代から陰暦8月15日に行われるそうだ。

勉強になりました。

 

     池また池 

 

水は滞らず、救われた命を養う。

草木もまたあるがままに生え、季節に従って茂りそして休む。

生命はつながりの記憶を内に、涸れることなく万物と響きあう。

 

     錦鯉

 

修行中の鯉? なんだかお堂にこもってお経をあげているみたい。

まさか、仕切られたスペースに閉じ込められているわけではないよね。

 

     滝は演出? 

 

けっこう水しぶきがあがっていたが、自然を取り込んだ作りがなかなか。

誰の演出なのか、手が込んでいる。

 

     弁天窟

 

弁天窟の中には、16童子が祀られているとのことで、暗闇に目を凝らしてみた。

 

     メインの弁財天

 

思わずシャッターを押してしまったが、許されるかな?

  

     またまたクローン仏

 

度肝を抜かれて、童子を探すのを忘れちゃった。  

 

     催し物の看板

 

この看板、入り口に近いところだったか、出口だったか、記憶があいまいになってしまった。

ま、いっか。

 

     海が見えた

 

長谷寺の高みから海が見えた。この日一番のカイカン。

鎌倉は海と山と寺があるからいいのかな。それに土産物屋さん・・・・。

気まぐれの長谷寺散歩、天気に恵まれてよかった。

 

 

 

   

 

 

  


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2 コメント

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放生会と放生池 (ウォーク更家)
2019-10-13 17:36:09
あじさいで有名なお寺であるにも拘わらず、お寺自体の印象は殆ど残っていません。

そう、私も、多分、順路の立て札通りに、他人任せで巡ったせいだと思います。

聞き慣れた「放生会」と「放生池」の関係を初めて知りました。

そして、今更ながら、私は、仏教の基本的な事すら何も知らないことに、ハタと気づきました。
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仏教は意識の中で成熟? (tadaox)
2019-10-14 14:29:44
(ウォーク更家)様、ぼくらは日ごろ仏教を身近に感じ頼っていながら、仏教のことをあまり知らないですよね。
でも、そのことが仏教の普及が成熟している証拠かと思います。

論より実行、日常の行事の中にお彼岸があったりお線香をあげる習慣があったり、意識することなく引き継がれているような気がします。
お寺巡りは深刻な理由を必要とせず、なんとなくブームでもいい気がします。
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