どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

耳の穴のカナブン(9)

2006-12-08 01:43:17 | 連載小説

 庭の一郭に自生する野の草が、少しずつ季節をずらして花をつけていった。薊、桔梗、撫子、男郎花、女郎花、萩。もともとは庭師に依頼して土ごと移植した野生の植物が、環境に慣れ世代を越えて生き延びてきたものだった。
 いずれも冷涼な土地を好む花々だけに、夏の日射しと暑さを避ける工夫は施されていて、そのための日除けや送風装置がある時期稼動する仕組みになっていた。
 ちょっとしたお手伝いだけで、ふるさとの野花が見られるとあって、旦那様もその点は先代の試みを評価していた。
 近くの自然教育園でさえ、これほどまとまって野の花に接することはできないはずと、密かに自慢にしている場所だった。
 植物というものは、この世に存在するものとして、最も信用できるのではないかとモトコは感じていた。地球のリズムに則って、不易の摂理に就こうとしている。気候の変化に影響を受けることはあっても、それがすなわち植物の真摯な本性ではないかと考えるのであった。
 そこへいくと動物は、どこか腰の落ち着かないものを体内に抱えている。ことに人間は、信条・理念と高尚なことを口にしながら、些細な理由ですぐに変質してしまう。しかも許せないのは、時間が経つと、そのことを誰一人不審にすら思わなくなることである。
 よくよく考えると、さまざまな現象も、人間の頭が創り出した薄膜のようなものに起因しているのではないかと、疑いを抱くことがある。すべてがそうだと言うわけではないが、脳の持つ恣意的な作用が、幻覚を見たり、お告げを聞いたりさせる要因ではないかと思うのだ。
 妄想とは言えないまでも、時と所との出合いによって偶然生じた存在の影が、人の脳裏の被写幕に映じて不可思議を呼ぶのではないか。夏休みの期間、にわかに現れなくなった奥様の存在に思いを馳せ、モトコは自分の精神状態をあれこれと分析してみるのだった。
 二学期になると、モトコの日常は再び疲労に覆われた。
 トシオと共に、白金台から地下鉄に乗り、途中乗り換え駅で見送る振りをする。やがてトシオは市谷で降り、ひとりで十数分を歩くことになる。
 放って置けばいいものを、モトコにはそれができない。駅から学校まで、キョロキョロとわき見歩きをする坊ちゃまに、モトコの緊張は緩むことがなかった。
 帰ってきたら、それとなく注意してやらなければ・・・・。そんなことを考えているうちに、トシオが通行中の男とぶつかりそうになる。思わず飛び出していって非難の言葉を喚きそうになるのを、ぐっと堪えるだけでもストレスが倍加するのだった。
 夜は夜で、なかなか寝付かれない。いらいらした時間を引きずり始めていた。
 特にこのところは、業界の海外視察ということで、旦那様はイタリアを初めとするヨーロッパの国々を回っていた。日本独自の技術を駆使して作り上げた繊維製品の販路を拡げるべく、視察団の任務はそれなりの重みを負っていた。
 出発前に、それらの話と共に、家のこと、トシオのことをよろしく頼むと言い渡されていたことも、モトコの緊張を強めていたのかもしれなかった。
 深夜二時を回って、それまでの昂りが消え、一気に睡魔が訪れた。
 わずかな灯りで、トシオの寝顔を目の端に捉えていたが、そのまま意識が遠退いて深い眠りに墜ちていった。
 どれほどの時間が経ったことか。
 モトコは、部屋の中に何かの気配を感じて、眠りから浮上した。急速に回復した認識機能が、かつての経験に照らし合わせて、モトコにある種の情報を送ってきた。
「奥様ですか」
 やや確信の伴わない問いかけを発して、鴨居の辺りを凝視した。欄間にも扁額にも、かじりついている姿は見られなかった。
「起きろ!」
 影の一番濃い北側の隅で、押し殺した声がした。黒い衣装が紛れていて、男の姿を認めるまでに数秒かかった。
 (ドロボー?)
 本来、この状況では強盗と考えるべきだったが、モトコは本能的に事態の程度を軽く見ようとしていた。
「金庫はどこにある?」
 聞かれても答えられないのが、恐ろしかった。
「旦那様は、現金をお持ちにならない主義です」
 嘘を言うなとばかりに、モトコに向かって包丁を突き出した。刃先が電燈の光を映して、汚れた真珠色に染まっていた。
「どこだ・・・・」
「わたしのお金なら、全部差し上げます。いただいたお給金のすべてです。それを持って、お帰りください」
「本当にないのか。ガキに聞いてみるぞ」
 黒装束が、トシオに手を掛けようとした。瞬間、モトコの口から悲鳴が迸った。
「奥様、助けてください!」
 身を翻してトシオを庇う。
 同時に、五燭の電燈が閃光を発して、男に襲いかかった。手にした包丁が、感電したように火花を散らし、男はそれを取り落とした。
 フラッシュの後の深い闇が、部屋を満たした。
 モトコの胸の下に、坊ちゃまのぬくもりがあった。
 見えなくても、トシオの鼓動が生きている喜びを伝えてくる。
 一方、覆いかぶさるモトコの背中に、得体の知れない皮膜がかぶさっていた。大きな水枕を乗せられたような、馴染めない感触だった。
「トシちゃーん・・・・」
 どこかで、トシオを呼ぶ声がする。
「坊ちゃま、聞いてはいけません」
 モトコは、トシオの両耳を手で覆った。「・・・・奥様、堪忍。もう、大丈夫です。成仏してください」
 背中から、重みが降りた。
 暗闇の底を、紫色の幽体が這い、襖に沿って煙のように立ち昇った。それは、欄間の模様をくぐり抜け、隣の仏間に滑り込んだ。
 強盗は、一部始終を目にしたはずだ。
 腰を抜かしたのか、しばらく動けずにいたが、まもなく這うようにして部屋を出て行った。
 まんじりともせずに、朝を迎えた。
 ハナさんと二人、もうお屋敷に男の気配がないことを確認してから、警察に届け出た。
「もっと早く110番してくれれば、捕まえられたんですがね」
 パトカーの警官は、暗に非難しているようだった。
 モトコは、こころの内でまったく別のことを考えていた。今朝がた体験したことが、果たして妄想だったのだろうか、と。
 無意識のうちに、奥様に助けを求めた自分の行為が、気の迷いから生じた軽挙だったのだろうか、とも。
 それならば、あの五燭が発したフラッシュは、どんな現象だったのか。
 刑事が、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
 モトコは、いちいち答えながら、あの時自分のチャンネルが、危機に際して感度を極限まで高めたのではないかと確信した。
 ラジオだって、人が寝静まった深夜、遠く半島や大陸の電波を拾うことがある。海を越えてくる温もりに、親愛の念を抱いたこともあるではないか。
 奥様、ありがとう。勝手を言ってすみません。
 モトコはこのあと、トシオを休ませるために学校に電話をしなくてはならない。もう質問はそのくらいにしてくれないかなと、微笑みを見せながらも、うんざりしていた。

   (続く)
 


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