ヨーロッパから帰ってきた旦那様は、事件を知ってすばやい行動をみせた。
自分の持論を引っ込めて、当時急成長しつつあった警備保障会社に、システムの設置と管理を依頼した。
「周りの者はわしの考えを承知していても、犯罪人の目には他所の大金持ちと同じに見えるのだろう」
モトコやハナを危険にさらした事を詫びながら、独りよがりの判断を反省した。
「・・・・用心のために、男手を頼もうか」
「いえ、それは・・・・」モトコは口ごもった。「却ってそちらの方が怖い気がします」
率直に答えたつもりだったが、旦那様はおかしそうに笑った。
あの夜の出来事は、あらかたモトコの胸に仕舞いこんでしまった。人手を増やすことが、むしろ混乱を招くであろうことは、モトコだけに判っていることだ。だから、旦那様が勘違いしてくれたことでホッと胸を撫で下ろしたのであった。
強盗騒ぎが一段落すると、奥様の一周忌が目前だった。
犯人は掴まらないままだったが、それはモトコの望むところだった。万が一逮捕されて、あの夜のことをしゃべられたらと思うと、やはり不安が付きまとった。もっとも、そうなったところで誰も信じる者など居ないだろうから、トボケきるつもりであったが・・・・。
先祖の墓は、いまも長野市郊外の寺にあるという。
先代が寄進して整備したので、いまはそれなりの外観を保っているが、もともとは手入れも行き届かない荒れた寺だったらしい。檀家が少ないからやむをえないのだが、毎年旦那様あてに寄付の要請があり、旦那様も快くそれに応じていた。
あるいは、先代の希望で新たに港区内の寺に墓所を定めたことの、罪滅ぼしの意味があったのかもしれない。旦那様は、両親の墓を守って、ここから始まる系譜を継いでいくわけだから、田舎も含めて、血の繋がる人びとの納得と支持を得ていかなければならなかったのだ。当然、奥様も同じ場所に埋葬されていて、法要には双方の親族が参列して盛大に営まれた。
モトコは、坊ちゃまの後ろに控えて、なるべく目立たないようにしていた。それぞれの親族がモトコを見る眼を、なんとなく予測できたからである。
「すべてをなげうって、トシオちゃんを育ててくれたんですってね」
奥様のお姉さまから声を掛けられたときは、なぜか身が硬くなるのを覚えた。皮肉や嫌味で口にした言葉とは思わなかったが、モトコはあらためて自分の置かれた立場のあやふやさを思い知ったのだった。
「いえ、そんなことは・・・・」
消え入りそうな声で答えるのが、精一杯だった。
正月をお屋敷で迎え、一月も半ばを過ぎてから、モトコはハナさんと交代で休みを取ることにした。
一週間の休暇を終えてハナさんが戻ってくると、今度はモトコが家に帰る番だった。
本来楽しいはずの帰宅が、モトコにとっては苦痛だった。これまでも、家に帰るのがためらわれて、ついつい回避することが多かった。しかし今回だけは、なんとしても済ませてしまわなければならない用事がある。そのための準備は、すでに整えてあった。
案の定、モトコが居ないのを好いことに、女が居座っていた。亭主の居場所を確かめると、朝から近くのパチンコ屋に行っているという。
「大切な用事があるので、連れてきていただけませんか」
モトコは、いつになく気迫のこもった言葉で女に言い渡した。
「あの人、中途で止めさせられると怒るわよ。知らないからね」
ふてくされたように答えたが、のろのろと立ち上がって家を出ていった。
三十分ほどして、亭主と女が連れ立って帰ってきた。防寒着の下の体は太って収まりきらないほどである。顎のあたりも段差がついていて、日ごろの生活ぶりが窺えた。
「わたくし、いよいよお屋敷を辞めることになりました。これを機会に一人で再出発をしたいと思い、お別れに参りました。ここに離婚届を持ってきましたので、判を押していただきます」
それまでニヤニヤしていた亭主の顔に緊張が走った。「・・・・急にそんな事を言われたって、こっちにも都合がある」
「あなたの都合など、誰一人聞く人などいませんよ」
モトコの反論に、一瞬言葉を詰まらせたが、「・・・・離婚を言い出すからには、慰謝料を払う覚悟があるんだな」と本音を吐いた。
「何を血迷ったことを・・・・」
モトコは、呆れたという思いを抑揚に載せて言った。「毎月わたしが仕送りをしていたのに、あなたはこの人を家に引き込んで浮気をしていたのですよ。慰謝料がほしいのは、むしろわたしの方です。この場で印鑑を押せば、何も言わずに収めますが、理不尽なことを言うのでしたら弁護士に相談します。そのときは、あなたの方こそ覚悟してくださいね」
亭主の顔に動揺のいろが浮かんだ。
隣で固唾を呑んでいた女が、亭主の様子を見て口をはさんだ。
「あんた、さっさとハンコ押しちゃいなよ。その方が後腐れなくていいよ」
女とすれば、晴れて入籍できるのだから、裁判沙汰でごたつくより、よほど得だと判断したのだろう。
モトコにとっては、ありがたい援軍だった。
亭主もその気になって、しぶしぶながら判を押した。
ついでのことなので、証人欄に女の名前を書かせた。それが、あたかも自分たちの結婚の保証のように受け取って、女はいそいそと署名した。
あと一人の証人は、すでにハナさんに頼んである。内心、快哉を叫びたいほどの気持ちだった。
モトコは硬い表情を保ったまま、離婚届を点検した。亭主に付け込む隙を与えないうちに立ち上がり、かねて用意の言葉をふたりの頭上に置いた。
「では、ごきげんよう」
後をも見ずに、その場を退出した。振り返らずとも、亭主と女の呆れた表情を思い描くことができた。
その日のうちにハナさんの署名ももらい、区役所の窓口に書類を提出した。
あっさりと受理され、モトコは元の姓と新たな住所を獲得することになった。小さなアパートの一室が転出先として用意されていて、そのための出費は計算済みであった。
(続く)
自分の持論を引っ込めて、当時急成長しつつあった警備保障会社に、システムの設置と管理を依頼した。
「周りの者はわしの考えを承知していても、犯罪人の目には他所の大金持ちと同じに見えるのだろう」
モトコやハナを危険にさらした事を詫びながら、独りよがりの判断を反省した。
「・・・・用心のために、男手を頼もうか」
「いえ、それは・・・・」モトコは口ごもった。「却ってそちらの方が怖い気がします」
率直に答えたつもりだったが、旦那様はおかしそうに笑った。
あの夜の出来事は、あらかたモトコの胸に仕舞いこんでしまった。人手を増やすことが、むしろ混乱を招くであろうことは、モトコだけに判っていることだ。だから、旦那様が勘違いしてくれたことでホッと胸を撫で下ろしたのであった。
強盗騒ぎが一段落すると、奥様の一周忌が目前だった。
犯人は掴まらないままだったが、それはモトコの望むところだった。万が一逮捕されて、あの夜のことをしゃべられたらと思うと、やはり不安が付きまとった。もっとも、そうなったところで誰も信じる者など居ないだろうから、トボケきるつもりであったが・・・・。
先祖の墓は、いまも長野市郊外の寺にあるという。
先代が寄進して整備したので、いまはそれなりの外観を保っているが、もともとは手入れも行き届かない荒れた寺だったらしい。檀家が少ないからやむをえないのだが、毎年旦那様あてに寄付の要請があり、旦那様も快くそれに応じていた。
あるいは、先代の希望で新たに港区内の寺に墓所を定めたことの、罪滅ぼしの意味があったのかもしれない。旦那様は、両親の墓を守って、ここから始まる系譜を継いでいくわけだから、田舎も含めて、血の繋がる人びとの納得と支持を得ていかなければならなかったのだ。当然、奥様も同じ場所に埋葬されていて、法要には双方の親族が参列して盛大に営まれた。
モトコは、坊ちゃまの後ろに控えて、なるべく目立たないようにしていた。それぞれの親族がモトコを見る眼を、なんとなく予測できたからである。
「すべてをなげうって、トシオちゃんを育ててくれたんですってね」
奥様のお姉さまから声を掛けられたときは、なぜか身が硬くなるのを覚えた。皮肉や嫌味で口にした言葉とは思わなかったが、モトコはあらためて自分の置かれた立場のあやふやさを思い知ったのだった。
「いえ、そんなことは・・・・」
消え入りそうな声で答えるのが、精一杯だった。
正月をお屋敷で迎え、一月も半ばを過ぎてから、モトコはハナさんと交代で休みを取ることにした。
一週間の休暇を終えてハナさんが戻ってくると、今度はモトコが家に帰る番だった。
本来楽しいはずの帰宅が、モトコにとっては苦痛だった。これまでも、家に帰るのがためらわれて、ついつい回避することが多かった。しかし今回だけは、なんとしても済ませてしまわなければならない用事がある。そのための準備は、すでに整えてあった。
案の定、モトコが居ないのを好いことに、女が居座っていた。亭主の居場所を確かめると、朝から近くのパチンコ屋に行っているという。
「大切な用事があるので、連れてきていただけませんか」
モトコは、いつになく気迫のこもった言葉で女に言い渡した。
「あの人、中途で止めさせられると怒るわよ。知らないからね」
ふてくされたように答えたが、のろのろと立ち上がって家を出ていった。
三十分ほどして、亭主と女が連れ立って帰ってきた。防寒着の下の体は太って収まりきらないほどである。顎のあたりも段差がついていて、日ごろの生活ぶりが窺えた。
「わたくし、いよいよお屋敷を辞めることになりました。これを機会に一人で再出発をしたいと思い、お別れに参りました。ここに離婚届を持ってきましたので、判を押していただきます」
それまでニヤニヤしていた亭主の顔に緊張が走った。「・・・・急にそんな事を言われたって、こっちにも都合がある」
「あなたの都合など、誰一人聞く人などいませんよ」
モトコの反論に、一瞬言葉を詰まらせたが、「・・・・離婚を言い出すからには、慰謝料を払う覚悟があるんだな」と本音を吐いた。
「何を血迷ったことを・・・・」
モトコは、呆れたという思いを抑揚に載せて言った。「毎月わたしが仕送りをしていたのに、あなたはこの人を家に引き込んで浮気をしていたのですよ。慰謝料がほしいのは、むしろわたしの方です。この場で印鑑を押せば、何も言わずに収めますが、理不尽なことを言うのでしたら弁護士に相談します。そのときは、あなたの方こそ覚悟してくださいね」
亭主の顔に動揺のいろが浮かんだ。
隣で固唾を呑んでいた女が、亭主の様子を見て口をはさんだ。
「あんた、さっさとハンコ押しちゃいなよ。その方が後腐れなくていいよ」
女とすれば、晴れて入籍できるのだから、裁判沙汰でごたつくより、よほど得だと判断したのだろう。
モトコにとっては、ありがたい援軍だった。
亭主もその気になって、しぶしぶながら判を押した。
ついでのことなので、証人欄に女の名前を書かせた。それが、あたかも自分たちの結婚の保証のように受け取って、女はいそいそと署名した。
あと一人の証人は、すでにハナさんに頼んである。内心、快哉を叫びたいほどの気持ちだった。
モトコは硬い表情を保ったまま、離婚届を点検した。亭主に付け込む隙を与えないうちに立ち上がり、かねて用意の言葉をふたりの頭上に置いた。
「では、ごきげんよう」
後をも見ずに、その場を退出した。振り返らずとも、亭主と女の呆れた表情を思い描くことができた。
その日のうちにハナさんの署名ももらい、区役所の窓口に書類を提出した。
あっさりと受理され、モトコは元の姓と新たな住所を獲得することになった。小さなアパートの一室が転出先として用意されていて、そのための出費は計算済みであった。
(続く)
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