モトコの疲れは、少しずつ溜まっていった。
ただ、我慢強い性質だったし、もともと田舎育ちで使い減りのしない肉体を持っていたから、急に具合が悪くなるといったことはなく、毎朝トシオを起こし、遅刻しないように送り出す日課は続いていた。
トシオが初めての夏休みを迎えると、お屋敷はこれまでにない活気に満たされた。坊ちゃまのお友だちが、入れ替わり立ち代わり現れて、お屋敷の中を隅々まで探検したからだ。
彼らはセミやトカゲを見つけると、持参した補虫網をかざして追いかけまわした。少年たちがいる間、邸内には歓声がひびき渡った。
旦那様は、モトコの口から少年たちの溌剌とした遊びぶりを聞くたびに、目を細めるようにして喜んだ。自分の幼少時代には適わなかった奔放な欲望の発露を、こころから推奨している様子が窺えた。
「でも、油断はできませんのよ。お庭の石をひっくり返したり、大切なサツキの株を傷つけたり、困ったことも仕出かしますから」
「まあ、いいじゃないか。多少のことは、自然が解決するさ」
報告される出来事の軽重を、モトコの声のニュアンスから判断し、妥当な場所に仕分けする。庭木に執着する者なら眉の一つも動かしそうなところだが、過剰に反応したりしないのが、旦那様の偉いところだった。
「しかし、庭園美術館に行かせるのだけは止めた方がいいぞ」
旦那様は、急に思いついたようにニヤリとした。「・・・・あそこはな、園内のものは枯れ葉一枚でも持ち出してはいけないことになってるんだ。昆虫だって、おんなじだろう。トシオたちが補虫網なんぞ持ち込んだら、受付のおばさんやら、管理のじいさんやらが大騒ぎを始めるかもしれん」
旦那様は、自分でも経験があるのか、笑いを隠すように顎を撫でた。
モトコは、へえっと驚いた顔をして旦那様を見た。日頃は会話を交わす間中、なぜか緊張が解けなかった。
高潔すぎる、謙虚すぎると、必要以上に身分の差を意識していたのは、モトコのほうだったかもしれない。坊ちゃまのことになると、自分でも意外なほどムキになる癖も、乳母の役を演じきろうとする見えない心の現れだったのだろうか。
「旦那様、庭園美術館には、いろいろなコガネムシがいるらしいですよ」
モトコは、意味ありげに微笑んで、旦那様を見上げた。「・・・・坊ちゃまは、もう大分以前から、あそこの虫のことは研究済みです。カナブンもマメコガネも、飼ったことがおありになりますもの」
冗談が過ぎたかとハッとしたが、旦那様も笑って応じてくれた。
「そういえば、中耳炎のときは、大変な思いをさせたな。それで、どうかな。いまでも、耳鼻科には行っているのか」
「はい、月に一度ぐらいの割合で通っています。院長先生が申しますには、もう少し成長すると自然に体質が変わるから、心配はいらないとのことです」
「そうか、ひ弱なところは、わしに似たのかな」
一瞬、奥様のことが脳裏をよぎったのは、いつになく距離を縮めて言葉を交わすことになった喜びを、どこかで後ろめたく思ったせいかもしれない。
まもなく迎えた旧暦のお盆には、三人の僧侶を呼んで丁重に供養した。新盆ゆえの特別の行事は最小限に抑え、寺に出向いての法要は十一月の一周忌に営まれるとのことだった。
遊び惚けた夏休みも残りわずかになり、宿題が悩みのタネとなった。トシオに付きっ切りで、さんすうのドリルや、こくごの読み書きをやらせた。
絵日記のタネには事欠かなかったが、遊びたい気持ちが先にたって、朝のうちの二時間を机の前に坐らせて置くのが一苦労だった。
坊ちゃまは、ひと夏で大きく成長した。背丈も伸びたが、モトコを驚かせたのはトシオの内面の変化だった。お屋敷に友だちを招いての交流が、トシオの主体性発揮に弾みをつけたようであった。
「あいつ、ネズミ花火を怖がるんだぜ」
お泊りを許されて、一晩トシオと共に過ごした少年が、回転花火に追いかけられて悲鳴を上げたときのことを、得意そうに繰り返した。
トシオは、足下に火花が迫ってきても、逃げるどころか軽く避けながら、最後には花火を踏みつけるしぐさまで見せた。
モトコは、自分自身がネズミ花火の動きに恐怖を感じていたものだから、悲鳴を上げた少年に同情した。その一方で、トシオの豪胆な性格を発見して、秘められたこの家の血筋に思いを馳せたのだった。
ハナさんの話では、長野県で製糸工場を経営していた先代社長は、安い賃金で山間の娘たちを雇い入れ、過重な労働を強いて利益を上げたのだと噂されているらしい。
モトコの考えでは、当時の状況からみて当然ありうる話ではないかとも思う。ただ、身売り斡旋を商売とする口入れ屋と結託して、騙したり虐待したりといった具体的な非道が示されないかぎり、さほど深刻な過去とは思えなかったのだが・・・・。
予測もしなかったトシオの豪胆さに触れて、お屋敷の人びとの血筋にまで思いを馳せたのは、何かの弾みだったのだろう。
モトコは、トシオの得意げな表情に同調して、誉めそやした。
「来年は、お友だちの家にもお伺いしたいわね」
少しずつ乳母の手から離れていく寂しさもなくはなかったが、決して内弁慶とは思えぬトシオの性格が、モトコを早晩このお屋敷から引き離してくれるだろうとの期待も、こころの底に蹲っていた。
夏休みは終わった。
いつしか、モトコの疲労も軽減していた。時には少年たちに付き合って、トランプや鬼ごっこに駆り出されたことが、好い方向に働いたのだろう。
少年たちの歓声がひびいていた期間、奥様の気配が消えていたことも、モトコの眠りを補って回復に力を貸したのかもしれなかった。
(続く)
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読者が読みたいと思っているところで、話をもう少し突っ込んで行っていただけると、嬉しいのですが。
よろしくお願いします。途中で違うところへ移ってしまうと、何となく消化不良といいますか、肩透かしをくわされたような気がするのですけれど。
ただで読ませていただいているのに勝手なこと言ってすみません。知恵熱おやじ