(妖し家からの逃亡)
ぼくたちは二階から梯子を使って降りた。
玄関の手すりが、靴の泥で汚れていた。
(早く帰ろう?)
妻が目配せした。
ぼくたちは急いでその家を離れた。
敷地の門から十メートルほど出たところで、妻が後ろを振り返った。
「あっ、あなた逃げて!」
わけも言わずに、妻が凄いスピードで走りだした。
前方には住宅街を挟んで左右に二本の道があり、妻は右の道を声を発しながら走った。
「はっ、逃げて! あっ、あっ、あっ、早く!」
ときどき振り返りながら、恐怖の叫び声をあげている。
ぼくは事情も呑みこめぬまま、何ものかが後ろから追いかけてくる気配を感じた。
あわてて自転車にまたがり、雪で凍った左側の道を逃げようとした。
「ああ~ッ」
そっちじゃないという絶望的な悲鳴が聴こえたが、車輪がすべってそちらの方向に向いてしまったのだから仕方がない。
(ああ、追いつかれたな・・・・)
平静な気持で後ろを見ると、彫の深い、浅黒い、筋肉質の男が風を切る速さで追い付いてきた。
先ほどまで独り目覚めの儀式をしていた時の、無関心な表情は消えていた。
引き締まった顔の筋肉を隠そうともせず、ぼくの目の前に何やら円形の厚紙を突きつけた。
「これ、使ったろう?」
見るとマジックペンで十二等分されたスペースに、細かい字で何か書いてある。
心を落ち着けて確かめると、「生活相談」「姓名判断」「協調性テスト」「空想指南」・・・・といった項目が、それぞれの場所に書きこまれている。
最後の方には、「相性診断」「欲望チェック」「浮気度調査」といった怪しげな項目が並んでいる。
「いや、特別に意識して使った覚えはない」
「おやおや、みんな平気で嘘をつく・・・・。さっきまで眼の色変えて話し込んでいたのに、後から知らない、聞かなかったという」
「そんな、言いがかりをつけられても困るなあ」
「おまえ本気で言ってるのか、卑怯な奴にはオトシマエをつけさせるぞ」
「だって、こっちから何かを相談したり、頼んだりしたことはないはずだよ」
「メンバーとあれだけ談笑していながら、何一つアプローチしなかったとは虫がよすぎる」
「そのコンパみたいのが、お宅の目的? それでコンサルタント料でも取るつもり?」
「おっと、えげつない言い方するじゃないか。無料でウチのサロンを使ったり、飲み食いできると思っていたのか」
「そっちが人を集めただけじゃないか」
「・・・・許せねえ、ほんとに許せねえ奴だ」
浅黒い男は、いきなり腕を伸ばして、ぼくの首に絡みつかせた。
来い!
もはや議論の余地はなかった。
有無を言わせぬ力で、ぼくの首根っこを押さえた。
そのまま身体を引きずるようにして、門の内側まで連行した。
ぼくは顔をひしゃげながら、妻が逃げた方向を窺った。
案の定、物陰に隠れてぼくの様子を見ていた。
(バカ、早く逃げろ! グズグズしているとおまえが捕まってしまう)
ぼくは必死の思いで、妻が余計な行動に出ないことを願っていた。
その男の家に、どういうきっかけで行ったのか記憶にない。
覚えているのは、男の仲間が盛んに有機栽培の素晴らしさを説いていたことだ。
応接間に十人ほどの男女がいて、それぞれに将来の理想を語っていた。
何人もの口からある俳優の名が発せられ、彼らがその男優を信奉しているのは明らかだった。
自然農法に話題が移り、矮木まじりの雑草の中でトマトやナスが勝手に実をつけている映像が紹介された。
「カボチャやジャガイモ、トウモロコシだって、手をかけない方がたくましく育つ」
大根や小松菜などの野菜が、野生を取り戻して先祖がえりをするという。
「豚だって、ほうっておけばイノシシのようになる」
「ほう・・・・」
放し飼いのニワトリが、庭木の枝にとまっているのを見たと自慢する女もいた。
「人間だって同じだよな」
グループをリードする中年の男が言った。
「・・・・結婚なんて自然に反した仕組みだから、破綻するのがあたりまえだ。こんな制度に縛られるのがおかしいんだ」
田舎で経験した夜這いの興奮を、自慢げに披露する禿頭の男もいた。
他の客も、みな顔を輝かせて彼の話を聞いていた。
と、いつの間にか、この家の主人らしい男が午睡から覚めて、リビングの薄いクッションの上で身支度をする様子。
その男は人目もはばからず下着をはき替えるつもりらしく、むき出しになった下半身をいとおしそうに覗きこんだ。
ぼくはつられて視線を向け、ハッとした。
ハガネのような硬度を持った男根が、ほぼ90度の角度でそそり立っていたのだ。
陽が西に回ったせいか、男の周囲には夕暮れの気配が漂っていた。
男のしぐさは、御簾の中の出来事のようだ。
自然で、わいせつな感じはなく、それでいて本能をくすぐられる疼きが背筋を走った。
ぼくは妻に気づかれないように妻の顔を見た。
胸騒ぎに似た動揺が、ぼくを息苦しくした。
「実はきょうこれから、皆さんと鬼頭さんのところへ行く予定になっています」
進行役の男が当然のように続けた。
他の参加者は、ぼんやりとした表情でうなずいた。
夕刻近かったので、ぼくは「うちはいけないよね?」と妻の顔を見た。
(行けない、イケナイ・・・・)頭の中で何度も反芻する。
「そうね、無理ね」
意見が合ったので、ぼくらは腰を上げた。
(敵は本能寺・・・・)
馬鹿な洒落が頭をよぎった。
まともな思考だと、その場の雰囲気に負けそうな気がしたのだ。
「鬼頭さんのところでは、お酒と夕食が用意してあるそうです」
相性診断で最高点を取った夫婦が、ニコニコ顔でうなずいた。
浮気度調査で「あんたの性根は一生治りません」と宣告された亭主は、頬をゆるめて腰を上げた。
ぼくは、少しなら・・・・とスケベ心をくすぐられかけたが、妻の緊張した表情に気がついて反射的に立ち上がった。
(うちは、用事があるので・・・・)
聴こえたかどうかわからないほど、小さな声で呟いた。
ぼくの腕をつかんだ妻の手に、力がこめられた。
立ち上がっても、誰ひとり反応しなかった。
薄暮の中の男を窺ったが、弱い光に紛れた表情を読み取ることはできなかった。
ただ、両手で太ももを撫で下ろしする動作は続いていた。
屹立した男根は、そのまま視えないフラッグを掲げたポールのように突っ立っていた。
(いまだ・・・・)
・・・・ぼくたちは応接間を出た。
梯子をつかって二階から降りたのは、階段が見つからなかったからである。
そもそも、ぼくたちには二階にいるという感覚がなかった。
だから、あわてて玄関の手すりを踏み台に地面に降り立った。
(怖い・・・・)
その感覚は、共通のものだった。
ぼくは妻を愛していたと思う。
愛していたから、いつも怯えていたのだ。
何かが、突然、妻を奪いに来るのではないか。
不測の事態が、目の前で起こるのではないか。
もちろん、こまごまとした不満がないわけではない。
皿の水滴をよく拭かないとか。
脱ぎ捨てたサンダルの片方が、横倒しになっているとか。
ニュースの結末が判るまえに、自分の見解をしゃべりだすとか・・・・。
それでも、ぼくは妻が第一なのだ。
(妻を奪われるくらいなら、そのまえにぼくが奪われた方がいい)
ぼくは、首根っこを押さえられながら、浅黒い筋肉男に向かってそう呟いた。
左手で男の腰にしがみつきながら、右手を男の股間に伸ばした。
トランクスの上から、男根をつかもうとした。
「おまえ、ほんとに死にてえのか。そこ触ったら、お陀仏だぞ」
ぼくは、直感した。
脅し文句の裏に、筋肉男の弱点が潜んでいることを・・・・。
「死んでもいい。死んでもいいんだ」
敵はそこにいる。
ぼくは思い切り手を伸ばして、トランクスの中心部をつかんだ。
シューッ。
股間から白い煙が噴き出して、手の中のものがしぼんだ。
浅黒い男は狼狽し、あわててぼくの首から腕を解いた。
ああーッ、ほんとに触りやがった。
生き神様を汚しやがった。
「おまえ、ほんとに死ぬぞ。三日三晩夢を見続けた末に、息ができなくなる・・・・」
筋肉の張りを失った浅黒い男は、悄然と門の内側に戻っていった。
ぼくは、さきほど妻と逃げ出してきた家を確認しようとしたが、目がかすんで何も見えなかった。
ぼくの姿も、妻の眼に映っているかどうか、確信が持てなかった。
あの日以来、ぼくは妻の姿を見ていない。
恋しいと思うのだが、妻に逃げるように言ったので、どこかに身を隠しているのだろう。
ついに、妻に安住の地を用意できなかった。
ぼくは不倫も裏切りもしたことはないけれど、生き神様を名乗る男と契約をしてしまったので仕方がないのだ。
もう二日間さまよって、風穴から吹き上げる冷気のような夢にさらされている。
あと一晩夢の続きを見れば、ぼくの命は尽きるはずだ。
妻より先に死ぬことを望んだのだから、覚悟はできている。
自然農法を隠れ蓑にした妖し家から逃亡するためには、それなりの代償を払わなければならないだろう。
想像もつかない落とし穴がこの世に存在することを、ぼくは夢の中で胸に刻んだ。
(おわり)
なんともはや、不思議な短編小説。
普通なら、その「妖し家」についての叙述があるところでしょうが、
そんなのは飛ばして、いきなり不可思議な状景が描き出されたり。
現れた男たちが何者かの説明もなく、そのうちの一人の「男根」が現れたり。
これもひとつり"窪庭ワールド"でしょうか。
読者は振り回されながらも、微かな救いは主人公の男が愛妻ぶりだったり。
それにしても、筆が冴えてますねえ。
くだくだとした状況描写なんかに拘らず、我が道を往くように話を進めていくなんてさすがです。
丑さん、ありがとうございます。
どうも、こういったジグソーパズルが好きなもので、ご迷惑も省みずにピースを投げ出してしまいました。
興味をもった方が、それぞれに組み立てて、一つの絵を描いてくだされば、嬉しいのですが・・・・。