今回の主役の一つは京都の伝統野菜に登録されている九条ネギである。
九条ネギは葉ネギの一種で根元から葉先までどの部分も甘みがあっておいしいという。
墓に九条太ネギと呼ばれる茎の太いネギがあって、こちらもネギそのものが主役になるほどトロ味があって京都にはなくてはならない野菜である。
いずれも主な産地は京都の九条地区で、九条ネギの呼び名もそこから出ている。
どちらも全体が青々とした葉ネギだから薬味としての利用よりもネギそのものが料理として賞味される。
収穫する時期によって味の違いがあり、夏は辛みが増し旬の1~2月が甘みを増して一番おいしいと言われている。
関東では長ネギ主体だから九条ネギを味わう機会は少ない。
ネギ好きとしては細ネギでも太ネギでもだし巻き卵や卵とじで食べてみたいと思う。
さて、九条ネギは九条という場所にちなんで名づけられたものだが、九条には藤原鎌足以来の廷臣を独占してきた藤氏の子孫で藤原朝臣九条家の存在がある。
そもそも大化の改新に功があったと天智天皇から藤原姓を賜った鎌足にさかのぼり、その子藤原不比等が天皇家と姻戚関係を結んだことで廷臣〈官僚〉の座は藤原姓がを独占することとなった。
藤原姓には四家あったが南家、式家、京家が衰運をたどったのに引き換え北家のみが隆盛を極めた。
九条家も北家の流れで廷臣を欲しいままにしていたが、やがて北家も分裂することになる。
摂関家として栄えた藤原北家は、平安末期、内部抗争によって二家に分かれる。
摂政・関白を務めた藤原忠通(ただみち)の子のうち、基実(もとざね)が近衛家、兼実(かねざね)が九条家を興した。
鎌倉時代に入ると、近衛家も基実の曾孫(そうそん)の代で近衛家と鷹司家に分かれる。
また、兼実の曾孫の代で、九条家は九条家・二条家・一条家の三家に分かれ、五摂家が成立しした。
この後、江戸時代末期まで摂政・関白は五摂家から立てられることなる。
藤原北家嫡流の藤原忠経の六男である九条兼実を祖とする。
兼実は鎌倉幕の初代将軍源頼朝と結ぶことで後白河法皇の庇護を受ける甥近衛基通と対立しつつ摂政関白になった人物として知られる。
九条の家号は始祖である兼実の殿第に由来するが、九条の坊名にちなんで「陶化」とも呼ばれた。兼実はその後源通親(土御門通親)との朝廷内の権力争いに敗れて失脚したが、通親の死後には兼実の息子の九条良経が摂政となっており、九条家の摂関家としての地位を確立した。
また兼実以降は橘氏を家司とし、橘氏の実質的な氏長者である是定の地位代将軍を襲名するようになった。
良経の嫡男道家は三男頼経が頼朝の同母妹の曾孫にあたることからこれを4代将軍として鎌倉に送り込んで(摂家将軍)道家は仲恭天皇の外叔父として摂政となっていたが、承久の乱後には舅の西園寺公経が親幕府派であったことから朝廷で主導権を握った。
しかし寛元4年(1246年)将軍となっていた鎌倉4代将軍九条頼経が京都に送還され、道家も関東申次を罷免された。
さらに騒動の最中の2月には道家も急死したことで、九条家の権勢は完全に失われた。
いったんは命脈が尽きたかに見えた九条家だが、摂政関白の流れをくむ家柄は姻戚関係の妙でいつの間にか復活する。
一時は近衛家を上回る家督を有し、広大な屋敷を構えて権勢を誇った。
旧華族の子孫は現在でも特別の姻戚相手として財界や政界から熱視線を浴びる。
中臣鎌足が天智天皇から賜った藤原姓は千数百年の時を経ても日本の中枢を担っている。
学生のころ「藤は絡まれた木が枯れても生き延びる」と教えられたが、今後も藤の命は途絶えることはないだろう。
真夏の怪談にふさわしい九条家の盛衰であった。
〈おわり〉
ありがとうございました。
現在でも閨閥というのは重要視されているようですね。
九条家というのも大河ドラマに登場していたんですね。
後白河法皇側が承久の乱を起こさなければ・・など、鎌倉幕府以降にも影響が続いているんですね。
こちらも勉強になりました。