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どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

<おれ>という獣への鎮魂歌 (36)

2006-06-03 06:27:13 | 連載小説

 おれは、机の上の原稿をじっと見つめた。
 紺野は、彼なりの感覚でチラシのレイアウトを考えたのだろうが、きのう暗室で乾燥させていた印画紙を思い出すかぎり、飾り文字の選び方、変形文字の組み合わせ方なども、いかにも平凡で面白みに欠けていた。
 見出し用の書体ひとつを取ってみても、もっと柔軟に考れば、子供たちの躍動する姿にぴったりのものが選び出せただろうにと、まだ目に残っている文字列の数々を検証していた。
 その印画紙は、いま、ここにはない。
 多々良の指示で、破棄されたのかもしれない。
 その上で、おれに新たな版下の作成をうながして、元原稿を置いて行ったに違いなかった。
 だが、一度汚された原稿は、すぐには立ち上がってこなかった。
 この紙片を初めて目にしたのであれば、うれしさもあって、紙の上の文字が、こども相撲のようにぐるぐると回りながら躍動したことだろう。
 おれの胸に、口惜しさがぶり返してきた。
 気を静めるために、再び外に出た。
 昼時になったらしく、大神宮通りの坂道を、事務服姿のOLやサラリーマンが、笑顔でしゃべり合いながら行き来していた。
 若いキャピキャピのギャルに混じって、先輩らしい女性が、慎ましやかに微笑みながら歩いていく。
 昼食は、ひとつ、ふたつの菓子パンと、テトラパックの牛乳を買い求めて、会社の休憩室で済ませるのだろうな、と想像したりした。
 とつぜん、おれの鼻の付け根を、ツーンと熱いものが走った。
 目元から、鼻腔へと抜けていったものが、つよく啜った空気を湿らせた。
「ミナコさん、もうすぐ行くからね」
 警察病院方向へ曲がって、建物の陰に消えた女性の残像を追いながら、おれは、胸の中で呟いた。どこに閉じ込められていようと、懸命に生きようとしているミナコさんの心は、寄り添うものをひきつけて放さないのだと、もう一度確かめることができた。
 駅に近い老舗の蕎麦屋で、きつねそばでも食おうかと考えていたおれは、ふと思いついて、向かいのパン屋でクリームパンとジャムパンを買った。ついでに、レジ近くのガラスケースから、長方形のパック牛乳を取り出して、袋に入れてもらった。
 事務所に戻って袋を開くのは、さすがに気が引けた。
 おれは、裏道をたどって、和洋九段女子高校の脇から靖国神社の大鳥居方面に出た。
 三々五々、人が集まってきている。おれと同じように、昼飯を食おうと場所を探している者、緑を濃くした桜の枝を見上げながら、のんびりと散策する者など、思い思いに自由な時間を楽しんでいた。
 おれは、石の台座に腰を下ろして、菓子パンを取り出した。
 ジャムが先か、それともクリームにしようかと迷ったが、結局、クリームパンの包装を破いた。
 テトラパックの牛乳を見つけられなかったのは心残りだったが、きょうのところは長方形のパック牛乳で妥協した。
 ストローを差し込んで、口いっぱいに吸い上げた。
 クリームと混ざりあった甘い味が、忘れかけていた幼い日の記憶にふれた。両手で掴んだ乳房の、手に余る量感が、頬や唇まで巻き込んで、知覚された。
 不思議な気がした。
 七尾の図書館で封印して以来、夢にも現れなかった幼児期の記憶が、いま、手繰られていた。
 おれが望みもしないのに、勝手に甦ったのだ。
 おれは、複雑な思いで、顔の辺りに残るふわふわした感触を意識した。それが、誰のものと認識したくないのだが、おれの鼻が潰れるほど押し返す弾力まで甦ってきて、おれを慌てさせた。
 口の中のパンと牛乳を飲み込んで、ジャムパンに移った。
 七尾に移ってからの、小学校の給食の味がした。
 もう、蜃気楼は消えていた。空間に浮かんで、つかの間、興奮をもたらした幻影が、気象の変化によって、跡形もなく拭い去られていた。
 満足のいく昼食ではなかったが、たまには不如意な感情を味わうことも、意味がありそうに思えた。
 おれは、先刻見失った女性事務員の後ろ姿を思い浮かべながら、ミナコさん世代の女たちが、心に空隙を抱えながらも、淡々と日を送っていることに感慨を覚えていた。
 自己主張して、日常に反旗を翻すといった考えは、毛頭ない。
 かといって、忍耐というほど無理をしているわけではない。
 控えめな中に、真の強さがあることを、肌身で知っている世代なのだ。一見、無謀な行為をしでかしたかに見えるミナコさんも、従順さゆえにたどり着いた結末なのだ。
 いまは加害者のごとく扱われているが、本当は被害者なのではないか。巻き込まれた現実を、さほど騒ぎもせずに受け入れているだけなのだ。
 だからといって、運命に甘んじているわけではないだろう。やがて、目を見張る行動となって、現れてくるような気がしていた。
 業務上横領。
 そんな罪名は、他の恥ずべき犯罪と比べたら、何ほどのこともない。
 控えめでありながら、とうとう最後まで自分を押し通したミナコさんに、おれは、深い畏敬の念を抱いた。
 帰社すると、社長の多々良だけが戻っていた。
 紺野は、疑惑を指摘されると、逆上して怒鳴り散らしたという。別の場所に事務所を構えて、独立すると宣言したらしい。
 多々良もまた、そうした展開を予想していたようだ。同床異夢と言ってしまえば、あまりにも味気ないが,いつかこのような状況に直面することは、互いに分かっていたのであろう。
 今回のことは、事業の将来を考える上で、好い転機になったようであった。
「こんなときに、申し訳ないのですが・・」
 おれは、多々良に事情を話して、明後日の休暇をもらった。「仕事の方は、なんとでもやりくりして、ご迷惑を掛けないように致しますので」
 マンダ書院以来、おれが大きく変わった点は、ひとより先に心を開くことが出来るようになったことである。自分を曝け出して、そのことで不利を蒙ったことはない。
 人間はみな弱みを抱えて生きているものだから、先に裸になれる人間には、無条件で信頼を寄せることが出来るのだろう。

 おれが、東京拘置所に向かった日、空は瑠璃色に晴れ渡っていた。
 昨夜の風が、上空の汚れを吹き払ってくれたようであった。
 国鉄中野駅を出発するころは、まだ通勤ラッシュ前だったが、新宿、池袋とターミナル駅を通過するごとに、人の数が増加していった。
 上野駅で、人込みとともに吐き出された。
 途中、日暮里で乗り換えれば好いものを、なぜか常磐線の出発駅まで行ってしまった。あれだけ調べたのに、確実さを求める心理が働いたのかもしれなかった。
 快速電車の方が速いと思い込んでいたが、車内の乗り換え案内板を眺めているうちに、北千住で緩行電車に乗り換える必要があるらしいことに気がついた。ホームに降りたってみると、地下鉄日比谷線やら、東武伊勢崎線やらの乗り換え表示もあり、おれの頭は混乱していた。
 目的地は、すぐ目の前のはずである。それなのに、たった一駅を残してミナコさんに至る経路で迷っていた。
 地図で見た限り、東京拘置所へは「小菅」駅の方が近い。そこへ向かうのであれば、東武伊勢崎線を利用することになる。
 一方、当初から予定していた「綾瀬」駅を目指すのであれば、常磐線の各駅停車に乗り換える必要がある。時計を見ると、おれが予想したよりは、いくぶん所要時間がかかっているようだ。
 迷っている場合ではなかった。こんなときは、初志貫徹でいくべきだ。
 おれは急いで隣のホームに駆け下りた。
 まもなく入線してきた電車に乗り込んだ。必要以上に焦っている自分が、ガラス窓に写っていた。綾瀬まで、通しで買ってきた切符が、手の中にあった。

   (続く)
 

  


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