綾瀬駅で降りると、東京拘置所までの道順が矢印で示されていた。降りてみて、初めて、おれの乗ってきた電車が、地下鉄千代田線との共用車両であることを知った。
このところ、国鉄と私鉄の相互乗り入れが進んでいて、利用者には便利になったわけだが、むかしの知識や経験にとらわれている者には、すんなりと理解しがたいところもあった。
再編を進めて、効率化を図る。
世の中、大胆に仕組みを変えて、より利潤を追求していく考え方が、広範に受け入れられつつあった。
早い話が、これから向かう東京拘置所だって、巣鴨プリズンとも呼ばれた歴史ある拘置所が廃止されて、ほんの数年前に小菅の地に移転してきたものである。
ちょっと油断をしていると、東京裁判の記憶とともに、古びた塀を回らした暗鬱な拘置所の存在そのものまで、忘れ去られそうな雰囲気であった。
現に、旧東京拘置所の跡地は、いま急ピッチで開発が進められている。
日に日に様相を変えていく東京の街は、人びとの記憶や生活を、あたかも羽蟻を振り払うように消し去ってしまう。個々が抱えていた痛みを、鈍磨させているようにも思われる。
巣鴨から小菅へ。
東京の中心から周縁部へ。
人間の痛点を意識させないように、できるだけ端っこに持っていこうとしているのではないか。
為政者が、そう考えたかどうかは分からない。
だが、おれがいま、綾瀬川の堤に沿って歩き始めたコースは、明らかに東京の端へ端へと人を追いやる風景であった。
拘置所の塀の内側には、首都高速道路と対峙するように監視小屋が建てられていて、サーチライトが塀の外まで乗り出すように腕を伸ばしている。
晩春というのに、水の表情は硬いままだったし、力なく萌え出る雑草たちの一本道も、風雨に曝されたコンクリート塀が作る影に圧倒されて、寒々しい印象を与えていた。訪問者の気持ちまで重くする、貧しい道であった。
駅からどれほど歩いただろう。萎えそうになるほど長い道のりに感じたのは、おれの心の問題だったかもしれない。
初めてたどる道筋は、そんな印象を与えるものなのだろうか。腕時計を見ると、それでも、駅を出てから優に二十分は超えていた。
塀に沿ってなおも歩き、角を曲がってしばらく行くと、二軒並んだ差入れ屋の向かいに、やっと面会所に至る入口が見えた。
それは、簗のように魚を迎え入れる構えを見せていた。
面会者用通用門をくぐると、初めて拘置所の威容が眼に入る。まず、目に飛び込んできたのは、敷地の中央に高く聳え立つ監視台であった。
左右に広がるのは、団地の集合住宅を連想させる中高層棟であり、ひたすら収容者数を増やして時代の要請に応えてきた。
あの建物のどこかに、ミナコさんがいる。おれは現実を目前にして、はやる気持ちを抑えきれなかった。
これからミナコさんに会いに行くのだ。落ち着かなくては・・。自分を叱咤した。
申し出て、許可さえ受ければ、会えるはずだ。
だが、たったそれだけの行程が、慣れないおれには精神的な圧迫となった。
ここでもまた、矢印に指示され、従わされる。面会受付窓口でさまざまな注意書きを読みながら、おれは丸一日仕事をし終わったように疲れ切っていた。
『面会願』と書かれた粗末な用紙に、必要事項を埋めていった。
最初の欄に、ミナコさんの姓名を書き入れた。きょうの日付と、おれの住所氏名職業を記入した。
関係欄には、夫、妻、父、母・・内夫、内妻、思いつく限りの関係が、細かく印字されていた。おれは、真剣に吟味したうえで、「知人」の文字を円で囲んだ。
次に目を移すと、再び住所氏名を記す欄がある。
何事かと迷わせられたが、その下にも同じ欄があって、一度に三人まで面会ができるむねの表示があったことを、思い出した。
重複する欄を飛ばすと、最後は用件を問う項目だった。
ここにも、あらかじめ分類された理由が並んでいた。おれは、「近況伺い」に丸を付けた。なんだか軽すぎるようで気が引けたが、通り一遍の様式に、却って救われるような気もした。
これが、心の奥まで精密に分類することを要求されたら、取調べを受ける被疑者のように萎縮してしまうだろうと、現実ではない仮定の事柄に思いを泳がせた。
考えてみれば、罪も罰も、与えられた項目にしたがって分類されているだけではないか。
裁判官も、人の暗部に潜む未知なる真理に迫るのではなく、おおかたの人びとを納得させられる、分類上手の技術者に過ぎないのではないか。
おれは、係官に面会申し込みの用紙を提出した後も、おれだけの恣意的な思いに耽っていた。
カフカやドストエフスキーは、こうした裁判の功利性には与しないだろう。彼らが構築するのは、哲学や文学の世界だ。・・おれは、何もわからないくせに、すべてが判ったような顔をして、人間のありようを考え続けた。
次の指示が出されたとき、おれは、一瞬ポーッとしていたようだ。
おれは、係官から渡された『面会整理表』を手に持って、補足の説明を聞いた。一枚の用紙に、受付番号と面会を実施する場所が記されている。おれが向かう先は、収容棟の二階ということらしかった。
面会人待合室でしばらく待たされた。おれより早く手続きした者が、数名待っていた。互いに席を遠ざけて坐っている。
前方にはテレビも置かれているが、誰も関心を示さず、むしろ身を縮めて、その場の備品に同化したがっているように感じられた。
おれもまた、同じような気持ちだった。
緊張のために神経が張り詰めている。その一方で、これまでの疲れから、隙あらば緩もうとする作用も、神経に働きかけているようだ。頭の中が、熱く、クーンと低い音を立てていた。
受付番号が呼ばれると同時に、電光表示板におれの番号が示された。
すでに、他の面会者の行動を見て学習していたから、おれは反射的に腰を上げて右手の検査室に入った。
係官から、所内に持ち込めない物のリストを聞かされた。
カメラも、録音機も、おれには関係のないものだった。
その他の手荷物も、持ち込む場合は、金属探知機を通すのだという。何ひとつ、面会の場に用意してこなかったおれは、小型のショルダーバッグをロッカーに入れて、検査室から通路に出た。
長い廊下が続いていた。一人で歩いていくと、その先の不確かさがおれを不安な気持ちにした。決して暗いわけではないのに、なぜか足先が、着地する場所を探っている。次元を超えて、別の世界へ踏み込むような心細さを、最後まで拭い去ることが出来なかった。
行き着いた先のエレベーターに乗って、二階へ上がった。
降りたところに窓口があり、そこの係官に『面会整理表』を提示した。
「五番に入ってください」
簡潔だが、高圧的な響きはなかった。
おれは、指示されたとおり、立会いの係官に従って、面会室に入室した。
狭い空間だったが、清潔な感じがした。
ミナコさんの姿を探したが、人影はなかった。
部屋の中央を、厚いガラス状の板が仕切っている。おそらく強化ガラスか、アクリル板を使用しているのであろう。テーブルを挟んで顔を見ながら話ができるようになっていた。
おれは、椅子に腰を下ろして、一呼吸入れた。
そのとき、向こう側の扉が開く音がして、淡いピンクのカーディガンを羽織ったミナコさんが、姿を現した。
光の加減なのか、数秒間、目をすぼめて、朝早くから面会を申し出た男の正体を確かめた。
「ああ、来てくれたのね」
「はい、遅くなりました・・」
月並みな挨拶を交わしたきり、あとの言葉を失った。万感胸に迫るとは、このようなときに使うのであろう。おれは、胸中に去来する思いを反芻しながら、ミナコさんの顔を見つめることしかできなかった。
ことばに纏めようとして、何度もつまずいた。
最初から、おれの動向を監視する立会いの係官に、気を殺がれているところもある。それにしても、これほど会話に窮したことは、かつてないことであった。
「話がないようであれば、そろそろ打ち切りにしますが・・」
係官の乾いた声が、背後から襲ってきた。
(続く)
このところ、国鉄と私鉄の相互乗り入れが進んでいて、利用者には便利になったわけだが、むかしの知識や経験にとらわれている者には、すんなりと理解しがたいところもあった。
再編を進めて、効率化を図る。
世の中、大胆に仕組みを変えて、より利潤を追求していく考え方が、広範に受け入れられつつあった。
早い話が、これから向かう東京拘置所だって、巣鴨プリズンとも呼ばれた歴史ある拘置所が廃止されて、ほんの数年前に小菅の地に移転してきたものである。
ちょっと油断をしていると、東京裁判の記憶とともに、古びた塀を回らした暗鬱な拘置所の存在そのものまで、忘れ去られそうな雰囲気であった。
現に、旧東京拘置所の跡地は、いま急ピッチで開発が進められている。
日に日に様相を変えていく東京の街は、人びとの記憶や生活を、あたかも羽蟻を振り払うように消し去ってしまう。個々が抱えていた痛みを、鈍磨させているようにも思われる。
巣鴨から小菅へ。
東京の中心から周縁部へ。
人間の痛点を意識させないように、できるだけ端っこに持っていこうとしているのではないか。
為政者が、そう考えたかどうかは分からない。
だが、おれがいま、綾瀬川の堤に沿って歩き始めたコースは、明らかに東京の端へ端へと人を追いやる風景であった。
拘置所の塀の内側には、首都高速道路と対峙するように監視小屋が建てられていて、サーチライトが塀の外まで乗り出すように腕を伸ばしている。
晩春というのに、水の表情は硬いままだったし、力なく萌え出る雑草たちの一本道も、風雨に曝されたコンクリート塀が作る影に圧倒されて、寒々しい印象を与えていた。訪問者の気持ちまで重くする、貧しい道であった。
駅からどれほど歩いただろう。萎えそうになるほど長い道のりに感じたのは、おれの心の問題だったかもしれない。
初めてたどる道筋は、そんな印象を与えるものなのだろうか。腕時計を見ると、それでも、駅を出てから優に二十分は超えていた。
塀に沿ってなおも歩き、角を曲がってしばらく行くと、二軒並んだ差入れ屋の向かいに、やっと面会所に至る入口が見えた。
それは、簗のように魚を迎え入れる構えを見せていた。
面会者用通用門をくぐると、初めて拘置所の威容が眼に入る。まず、目に飛び込んできたのは、敷地の中央に高く聳え立つ監視台であった。
左右に広がるのは、団地の集合住宅を連想させる中高層棟であり、ひたすら収容者数を増やして時代の要請に応えてきた。
あの建物のどこかに、ミナコさんがいる。おれは現実を目前にして、はやる気持ちを抑えきれなかった。
これからミナコさんに会いに行くのだ。落ち着かなくては・・。自分を叱咤した。
申し出て、許可さえ受ければ、会えるはずだ。
だが、たったそれだけの行程が、慣れないおれには精神的な圧迫となった。
ここでもまた、矢印に指示され、従わされる。面会受付窓口でさまざまな注意書きを読みながら、おれは丸一日仕事をし終わったように疲れ切っていた。
『面会願』と書かれた粗末な用紙に、必要事項を埋めていった。
最初の欄に、ミナコさんの姓名を書き入れた。きょうの日付と、おれの住所氏名職業を記入した。
関係欄には、夫、妻、父、母・・内夫、内妻、思いつく限りの関係が、細かく印字されていた。おれは、真剣に吟味したうえで、「知人」の文字を円で囲んだ。
次に目を移すと、再び住所氏名を記す欄がある。
何事かと迷わせられたが、その下にも同じ欄があって、一度に三人まで面会ができるむねの表示があったことを、思い出した。
重複する欄を飛ばすと、最後は用件を問う項目だった。
ここにも、あらかじめ分類された理由が並んでいた。おれは、「近況伺い」に丸を付けた。なんだか軽すぎるようで気が引けたが、通り一遍の様式に、却って救われるような気もした。
これが、心の奥まで精密に分類することを要求されたら、取調べを受ける被疑者のように萎縮してしまうだろうと、現実ではない仮定の事柄に思いを泳がせた。
考えてみれば、罪も罰も、与えられた項目にしたがって分類されているだけではないか。
裁判官も、人の暗部に潜む未知なる真理に迫るのではなく、おおかたの人びとを納得させられる、分類上手の技術者に過ぎないのではないか。
おれは、係官に面会申し込みの用紙を提出した後も、おれだけの恣意的な思いに耽っていた。
カフカやドストエフスキーは、こうした裁判の功利性には与しないだろう。彼らが構築するのは、哲学や文学の世界だ。・・おれは、何もわからないくせに、すべてが判ったような顔をして、人間のありようを考え続けた。
次の指示が出されたとき、おれは、一瞬ポーッとしていたようだ。
おれは、係官から渡された『面会整理表』を手に持って、補足の説明を聞いた。一枚の用紙に、受付番号と面会を実施する場所が記されている。おれが向かう先は、収容棟の二階ということらしかった。
面会人待合室でしばらく待たされた。おれより早く手続きした者が、数名待っていた。互いに席を遠ざけて坐っている。
前方にはテレビも置かれているが、誰も関心を示さず、むしろ身を縮めて、その場の備品に同化したがっているように感じられた。
おれもまた、同じような気持ちだった。
緊張のために神経が張り詰めている。その一方で、これまでの疲れから、隙あらば緩もうとする作用も、神経に働きかけているようだ。頭の中が、熱く、クーンと低い音を立てていた。
受付番号が呼ばれると同時に、電光表示板におれの番号が示された。
すでに、他の面会者の行動を見て学習していたから、おれは反射的に腰を上げて右手の検査室に入った。
係官から、所内に持ち込めない物のリストを聞かされた。
カメラも、録音機も、おれには関係のないものだった。
その他の手荷物も、持ち込む場合は、金属探知機を通すのだという。何ひとつ、面会の場に用意してこなかったおれは、小型のショルダーバッグをロッカーに入れて、検査室から通路に出た。
長い廊下が続いていた。一人で歩いていくと、その先の不確かさがおれを不安な気持ちにした。決して暗いわけではないのに、なぜか足先が、着地する場所を探っている。次元を超えて、別の世界へ踏み込むような心細さを、最後まで拭い去ることが出来なかった。
行き着いた先のエレベーターに乗って、二階へ上がった。
降りたところに窓口があり、そこの係官に『面会整理表』を提示した。
「五番に入ってください」
簡潔だが、高圧的な響きはなかった。
おれは、指示されたとおり、立会いの係官に従って、面会室に入室した。
狭い空間だったが、清潔な感じがした。
ミナコさんの姿を探したが、人影はなかった。
部屋の中央を、厚いガラス状の板が仕切っている。おそらく強化ガラスか、アクリル板を使用しているのであろう。テーブルを挟んで顔を見ながら話ができるようになっていた。
おれは、椅子に腰を下ろして、一呼吸入れた。
そのとき、向こう側の扉が開く音がして、淡いピンクのカーディガンを羽織ったミナコさんが、姿を現した。
光の加減なのか、数秒間、目をすぼめて、朝早くから面会を申し出た男の正体を確かめた。
「ああ、来てくれたのね」
「はい、遅くなりました・・」
月並みな挨拶を交わしたきり、あとの言葉を失った。万感胸に迫るとは、このようなときに使うのであろう。おれは、胸中に去来する思いを反芻しながら、ミナコさんの顔を見つめることしかできなかった。
ことばに纏めようとして、何度もつまずいた。
最初から、おれの動向を監視する立会いの係官に、気を殺がれているところもある。それにしても、これほど会話に窮したことは、かつてないことであった。
「話がないようであれば、そろそろ打ち切りにしますが・・」
係官の乾いた声が、背後から襲ってきた。
(続く)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます