このままお屋敷を辞したらどうなるだろうと、モトコは空想した。
離婚交渉の駆け引きで亭主に言った言葉が、現実味を帯びて感じられた。
この日のために借りた六畳間には、寝具と食器程度は持ち込んである。簡単な料理をして、数日を過ごすぐらいは、あまり苦にならない態勢ができていた。
しかし、このまま穴倉のような場所に籠もる気持ちは起こらなかった。
なんといっても、独り身になったのだ。その歓びを、無理やりにでも表現してみたかった。
(温泉?)
頭に浮かんだのは、温泉にゆっくり浸かりたいという思いであった。ささやかであろうが、古臭かろうが、熱めの湯に入って存分に手足を伸ばしたら、どれほど心地好いだろうかと胸が躍った。
草津温泉、白骨温泉・・・・。いくつか頭に浮かんだが、どれも遠すぎる気がした。東京から、あまり離れていない場所がいい。となると、伊豆か箱根あたりになるのだが。
モトコは駅前に観光案内があったのを思い出した。大手の旅行会社に行くのは気が引けたが、一坪ほどの店舗に女子事務員がぽつねんと客を待っている案内所が、親しみやすかった。
「二泊ぐらいで、のんびりできる宿はないかしら?」
「何名さまですか」
「それが、わたし一人なのよ」
「そういう旅館もないことはないですよ」
女子事務員は、モトコの顔を見ながら、あっけらかんと答えた。
「あら、やっぱり女の一人旅は敬遠されているのかしら?」
「いえ、そういうわけではないんですけど」
あわてたように、パンフレットを引っ張り出した。「・・・・一部屋に一人のお泊りですと、お客さんも割高になってしまうので、混んでる時期は複数優先になってしまうんです」
客の便宜を口にしているが、要は宿の都合を優先しているだけだ。効率が悪いだけでなく、他にも理由があるのかもしれなかった。
正月客が一段落した後ということもあって、あれこれいう前に宿泊先が決まった。この時期、どんな客でもありがたいのかと、少々自虐的に苦笑して見せた。
翌日、モトコは新幹線で熱海に向かった。早く着いたので、アーケードの商店街を冷やかし、時間を調整してから山の上の宿を目指した。
路線バスの案内もあったが、奮発してタクシーに乗り込んだ。ささやかな奢りでも、誇らかな気持ちになれたのがうれしかった。
気が逸るのだろう、調整したにもかかわらず三時前に到着してしまい、ロビーで一息入れる仕儀となった。案内を待つ間、自分がどのように見られているのか気になって、ときどき帳場の方に視線をはしらせたが、モトコが気にするほど関心を持つ者などいるわけもなかった。
まもなく案内された部屋は、海を眼下に見下ろす眺めの好い部屋だった。
予想外の好待遇を喜んだが、考えてみればけっこうな料金だし、連泊の予約なのだから、当然といえば当然なのかもしれなかった。
海の見える貸しきり風呂で、のんびりと身体を伸ばした。海の幸満載の料理もモトコの日常を超えて、これまでにない幸福感をもたらした。
昔風に懐紙に包んだチップを仲居に渡すと、食事の間中あれこれと打ち解けて、自分の身の上まで話してくれた。
「花火のある日は、お客さんでいっぱいなのですが、こうしてゆっくりと寛がれるのが最高ですよね」
さりげなく客の心をくすぐり、ころあいをみて部屋を辞していった。
(やっぱり、お屋敷をやめよう・・・・)
突然、こころが動いた。前々からの思いではあったが、たったいま仲居とおしゃべりをしているうちに決断への弾みがついたようだ。
(温泉地で、わたしも仲居をやって生きていこう)
客のチップに一喜一憂する人生も、面白くてよいのではないかと、すっかりその気になっていた。
一晩経っても決心が鈍っていなかったら、思いきって旦那様にお暇を願い出よう。ふんわりとした羽根布団を首まで引き上げて、モトコは生涯一の眠りに落ちていった。
翌日は、仲居の薦めにしたがって近くの公園まで散歩に出た。
だらだらと坂を登って辿り着いた場所は、かなりの敷地に梅の木を配した気持ちの好い造りを持っていた。あと一ヶ月もすれば、梅の花も咲いてにぎわうとのことだったが、何もかもが寸前の静けさに覆われていて、いまのモトコの心境にピッタリの感じがしていた。
(坊ちゃまや奥様に係わるのは、もう、たくさん・・・・)
決心は揺らいでいなかった。
中山晋平の晩年の別荘を移築したという記念館に上がって、居合わせた老夫婦と共に案内人の解説を聞いた。
居間から童謡が流れてくる。
ガラスケースの中に展示されたレコードジャケットが、メロディーと呼応してさらに精彩を放っている。竹久夢二の画は、どうしてこんなに夢のようなのだろうと、モトコは長々と見入っていた。
日当たりの好い廊下に出ると、この世に生を受けた歓びがガラス戸越しに差し込んできた。これほど幸福感に満ちた建物を、モトコは見たことがない。わずかに歪んだ昔ガラスの肌合いが、そんな気持ちにさせたのかもしれなかった。
モトコは、しばらく廊下に佇んでいた。庭を眺めていると、この家の当主になったような気分になれた。華やかな交友の一方、慎ましやかな暮らしぶりも偲ばれて、昔の人の生き方がなんともうらやましく思われた。
(大きなお屋敷は、それだけで人を押しつぶすのよ)
奥様は、目に見えない地霊のようなものに命を奪われたのではないかと恐怖を感じた。坊ちゃまも、旦那様も、いずれは重圧に負けるときがくる。他人の自分まで巻き添えになることはないではないか。
モトコは、庭に向かって大きく息を吐き出した。
(続く)
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