武蔵野の雑木林を切りひらいた一角に
ふた棟のアパートが並んでいた
メゾネットタイプの部屋には新婚夫婦が住み
朝50分かけて都心の職場へ向かう夫を
妻は戸口でぼんやりと見送った
祝福されることもなく結婚して
人目を避けるようにひそむことを望んだのは
恋愛に傷つき疲れ果てた妻のほうだった
夫はそうした経緯を知っていたが
林の中で妻の傷が癒えるのを待つ気持ちだった
妻は夫のことをヌウと呼んだ
夫はそのあだ名の意味を問うこともなく受け入れた
ヌウ 朝あなたが通り抜けていく林の中に
白い花をいっぱいつけた大きな木があるでしょう
あの木の名前なんていうか知っている
農家のおじさんに訊いたらエゴノキっていうんだって
私あの花が咲いてから心が少し安らかになったの
秋になると薄みどりの実をつけるんだけど
うっかりかじると毒をもっているらしいわよ
なんだか私みたいでヌウに済まないと思うのよ
夫は表情も変えずに動揺する
正直すぎる妻の告白に心はいつも波立っているのだ
ヌウ やっぱり離婚しようかなどと
言い出しかねない妻に対して夫はただ黙るだけ
表情を隠すのは唯ひとつの対処の手段なのだ
エゴノキの花ってほんとに綺麗だね
バス停へ向かう途中で見た白い花の光景を
その夜 夫は声を弾ませて報告する
綺麗って ただそれだけ?
妻はまったく毒のない夫に苛立ちをぶつける
あいつ 振られたのにしつこく手紙をよこすのよ
別れた恋人が実家へ送ってきた写真を夫に見せる
ほらケープタウンとモロッコの港らしわよ
いつまでたってもキザな奴でしょう
だから私はヌウのほうがよっぽど好きなんだ・・・・
答えるすべもなく夫はただホッとする
心は穏やかなのに身体のどこかに痛みが走る
案外堪えているいるのかな そうでもないのかな
自問する日々が長らく続いている
やはり妻のいうとおりエゴノキは毒を持つのだろうか
うす緑の実が落ちてきたら雑木林に埋めればいい
若い未熟な実だからこそ毒を持つが
ヤマガラが啄む頃にはいずれ毒は抜けるだろう
夢にうなされる妻にそっと夜具をかけ
この人をずっと見守っていこうと胸の上で手を組む
(2017/08/03より再掲)
エゴノキの花
(ウェブ画像)より
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