さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

気仙沼の1日

2025年01月04日 | 東北シリーズ


気仙沼の1日はヴァンガードに始まります。津波で大打撃を受けたジャズ喫茶ですが、
全国のファンからの支援を受けて復活し、その後オーナーとマスターが相次いで
亡くなられた後、地元のファンが有志で復活させた住民の憩いの場なのです。


ここには毎朝常連のおじーさんたちが集まります。必ずみんな来るので、もしも
何かがあって休むときは、心配されるので欠席届の連絡があるほどなのです^^


カウンター席はその方々で埋まるので、私はいつも後ろのテーブル席で会合を
見守っています^^; いつもはワイワイ楽しそうですが、私が今宵行くつもりの
「あさひ鮨」の会長さんは、これから入院するとか。あれまあw


天気はいいけれど寒くて小雪が舞っていますが、お散歩に復興記念公園まで歩いて
登りました。景色がいいからね。


向かいには私が泊まっているプラザホテル、私の部屋の窓も見えています。


厚着をしたおじーさんおばーさんが座って話し込んでいました。下からも別の
おばーさんがのんびりと登ってきます。ここも老人たちの集いの場になっている
ようです。寒いけどなあー!


あちらは鹿折地区。津波でほぼ全部流されて、大きな船が陸の奥まで打ち上げられて、
さらに流れ出た重油が燃えだして火の海になったところです。ニュースでの「気仙沼が
燃えています!」という絶叫の声が思い出されます。


集落ごとに震災で亡くなられた人たちの名前が残されています。同じ苗字が並んで
いるのが印象的。あの集落はあっちもこっちも〇✖さん、てあるあるですよね。
年齢まで刻まれていて、幼児の兄弟がいたりして涙が出そう。。

早めにホテルに帰り、午後はたっぷりと温泉に浸かって癒された1日でした。


朝にヴァンガードでお見かけした会長さんの店、あさひ鮨に。いまはもう息子さんの
代になっています。


まずはここ特産のフカヒレを使った「ひれ酒」。フグのほうが香りがいいと思うけど、
ここにきたらこれなのです。アテには鯵刺し。これがさすがに美味い!


会長さんはもうかなりの高齢だし、入院を控えているので店には来ていませんでした。
若旦那は私が会長さんを知っているというので、会長さんが描いた絵葉書をくれました。
絵が趣味なんです。新しい橋があるから、描いたばっかりだなぁ。


酒を飲んでいたら、「会長さんの知り合いには・・・」と一品サービスしてくれました。
それほどの仲ではないんですが^^;


ここの寿司は美味いぞぉ~。


おそらくはここでしか食べられない「フカヒレ寿司」。気仙沼のフカヒレは世界的に
有名なんですよ(^益^)b ああ、なんと贅沢!

途中でカウンターの横に座ったのが、大島で食堂を営む年配のシェフでした。大島と
いえば震災後に橋がかけられたところですが、地震があったときには連絡船も途絶えて
孤島となり、水にも食料にも大変困ったところです。避難民が集まったところで
料理番を頼まれ、作った食事がなんと島の住民全部の1900人分!!! 島民の食材を
その場所に集めて、作ったそうですーw 最後には島の名産、フカヒレの姿煮を
作ったとか。それは売り物だから沢山あったんだな^^; 報道では「それは言わ
ないでくれ」と注意されたそうです。別に恥ずかしいとかやましいことじゃないと
思うがなあ(^益^)w


あさひ鮨の若旦那に、古くからこの街でやっているスナック情報を教えて頂きました。
すぐ横でした。「でも(年が)かなり上ですよ」と3回も念を押される。私の
行きたいような店を聞くと、いつも「いいんですね?!?!」と確かめられるw

期待通りのおばーさま^^ 石巻育ちで十代で家を出て(家出だったとか)、北海道に
行こうと思って切符まで買って北上したのに最初に来たここ気仙沼で降りたら、
当時賑わっていた太田地区のキャバレーで住み込みで働けるというので、そのまま
居付いてしまってウン十年。なかなか聞いていて面白い半生記でした~。


その二日後、地元紙「河北新報」を読んでいたら、そのスナックのおばーさんが
働いていた太田地区が出てきた。遠洋漁船員で賑わう歓楽街があったのですねー。
それが例によって廃墟になっていたんだ。私が初めて気仙沼に来たのは震災後で
すべて更地になってからだったので、知らなかったわけです。最盛期も、廃墟に
なってからも来てみたかったなあー。