サン・ファン・バウチスタ号。以前は内部を見学することができましたが、老朽化のため、
いまはここからしか見ることはできません。近づくのもダメとは。マストが倒れてきそう
だから?
見張り役が、あの高いところに登って「船長~!」なんてやりますよね。気持ちいいだろな。
左で跪いているのが支倉常長。真ん中が独眼竜・伊達政宗。右は宣教師。
メキシコとの交易を許可してもらうため、「スペインに行ってこい!」というわけです。
しかし伊達政宗、なんかショッカーの怪人みたいだよなあ(^益^)w
こんな船でメキシコに行き、大西洋を渡ってスペインへ。そして地中海を渡ってローマ
まで行ったのです。
スペインの王様に頼んでも、なかなか交易の許可はもらえません。何か月待っても埒が
あかず、ローマ法王まで会いに行って、あんよにキスまでしたのに、許可を得られません。
「そもそも仙台藩は東北の田舎だから日本の代表として来ているわけじゃなし、さらに
キリシタン弾圧までやっているそうじゃないか?」なんて情報が入ってきては、うまく
行くはずがありません。しかし手ぶらで帰るわけにもいかないので、常長は何年も苦しむ
のでした。
サン・ファン館では、『二つの大津波とサン・ファン・バウティスタ』と『夢の果てまでも』
という各20分ほどの記録映画を上映していました。もちろん両方、ひとりで観ました^^;
『二つの大津波とサン・ファン・バウティスタ』は、伊達政宗が支倉常長を派遣する
少し前に、地震と大津波の被害があって、遣欧使節の船を出すという企画は復興にからんだ
計画だったのではないか、という話でした。
『夢の果てまでも』は、常長が苦労した旅の記録。メキシコとの交易許可を得るため、そこを
植民地にしていたスペインまで行ったのに許可を得られず、カトリック総本山のバチカンまで
行ったんだよ、という話だったのですが、常長がサン・ピエトロ寺院についたところで
厳かな音楽が流れて「おわり」だったのには驚いた。
あのー!結局相手にされなくて、国外退去命令まで受けて、何の成果も得られずに終わった
んです。失意の帰国の際は、交渉のために洗礼まで受けて(魂まで売って?)キリシタンに
なったもんだから、禁教になっては国にも入れず、マニラで2年!息子に手紙で「帰りたい
よぉ~。殿様にはしっかり仕えるんだぞ」と健気な手紙を出しています。ひどすぎる。
サン・ファン館では常長は「仙台の偉人」というわけだから、「すげー、400年前にローマまで
行ったんだよ!」ということなのですね。キリシタン禁教令が出たものだから、常長はどう
人生が終わったのか、確かなことはわかっていません。貿易交渉許可を得て凱旋帰国し、
仙台藩はそれを機会に豊かになったのでした、という歴史だったら、もっといろんなことが
記録されていたのでしょう。
そう、何か大きな結果を残した人しか記録は残らない。この遣欧使節団に加わったのは300人
くらいいたそうですが、どんなメンバーだったのか、よくわかっていないのです。長い間
スペインで足止めをくらっている間に、「ここに残る」といった連中が「JAPON(ハポン)」
という姓を名乗って永住した連中もいるのです。
そいつらの伝記があったらきっと面白いよ。間違いなくロマンスがあったんだよ。なきゃ
祖国や家族を捨てて、地球の反対側に骨を埋めようなんて思わないでしょ。老人になった
「元日本人」に会って、どういう人生だったか話を聞きたいねェ。。。
以前に書いた「はしごをはずされた支倉常長」もどうぞ^^
https://blog.goo.ne.jp/sakichi21/e/f9a2e311e265491df0c6adb0862f6af6
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