マグリットの作品、『幕間』を見ていると、無常(この世のすべてのものは消滅、変化して、少しもとどまることがないこと)を感じる。
手と足の奇妙な連結、微妙な差異を含めてバラバラである。しかし、なぜかその形態の組み合わせに既成概念ともいえる情感が想起される。
片方づつ左右の脚を二本、人の形で林立させれば、それはあたかも人が背を向け立っている(即ち、向こう=現世を見ている)ようであり、腰に手をかけているのではなく膝に手をかけるという有り得ないポーズ、腕が絡めば寄り添っている風でもある。真直ぐ立った足に付随した腕の手先はカーテンを掴んでいるように見え、やはり、向こう(現世)を見ているようでもある。左端の壁の不定形な穴からは、人(手と足)が入ってきた風でもある。右端には硬い材質で作られた容器があり、それに倒れ掛かったような手足の奇妙な接続(通常の観念では足先の方向が違う)、それは、絶望や意気消沈をイメージさせる。
人間の条件とは何だったか・・・五感を支配する脳(頭)はなく、五臓六腑の器官を有する胴体もない。
機能している風に見える手足はバラバラの接続体であり、本来の意味を為していない。
この人間としての条件を外した手足(物体)は、何を物語っているのだろう。手と足の記憶・・・人としての片鱗、感触。
その背景にある山のような形をした、山を模した穴開き状の空洞・・・否、山の記憶(形状)を残した存在。これは明らかにもっと向こうに見える暗雲垂れ込めた嵐を想起させるような風景を遮っているというか、現世の形を失いつつある自然である。手足の舞台と水地球(現世)における混沌、混迷を隔てるものである。
『幕間』とは、現世という芝居が終り、次の舞台である来世(無)に移るまでのそのとき(崩壊しつつある形態、人が人としての条件を消失し無に帰していく)をイメージした作品である。切なくも人間の条件を失い入ってきた幕間のステージ・・・絶望の中にも向こう(現世)を懐かしんでいるであろう、否、そうであって欲しいと願うマグリットの空想(超現実)である。
わたくし(マグリット)は、《この作品の中のずっと向こう・・・あの嵐のような暗雲垂れ込めた空の下にいて、これを描いている》という切ない距離感、測り知れない隔絶を描いている。
(そして描いている現実のわたしは幕間の手前にいて、死んでしまった母を待っている位置にいるという仮想、円環)
手と足の奇妙な連結、微妙な差異を含めてバラバラである。しかし、なぜかその形態の組み合わせに既成概念ともいえる情感が想起される。
片方づつ左右の脚を二本、人の形で林立させれば、それはあたかも人が背を向け立っている(即ち、向こう=現世を見ている)ようであり、腰に手をかけているのではなく膝に手をかけるという有り得ないポーズ、腕が絡めば寄り添っている風でもある。真直ぐ立った足に付随した腕の手先はカーテンを掴んでいるように見え、やはり、向こう(現世)を見ているようでもある。左端の壁の不定形な穴からは、人(手と足)が入ってきた風でもある。右端には硬い材質で作られた容器があり、それに倒れ掛かったような手足の奇妙な接続(通常の観念では足先の方向が違う)、それは、絶望や意気消沈をイメージさせる。
人間の条件とは何だったか・・・五感を支配する脳(頭)はなく、五臓六腑の器官を有する胴体もない。
機能している風に見える手足はバラバラの接続体であり、本来の意味を為していない。
この人間としての条件を外した手足(物体)は、何を物語っているのだろう。手と足の記憶・・・人としての片鱗、感触。
その背景にある山のような形をした、山を模した穴開き状の空洞・・・否、山の記憶(形状)を残した存在。これは明らかにもっと向こうに見える暗雲垂れ込めた嵐を想起させるような風景を遮っているというか、現世の形を失いつつある自然である。手足の舞台と水地球(現世)における混沌、混迷を隔てるものである。
『幕間』とは、現世という芝居が終り、次の舞台である来世(無)に移るまでのそのとき(崩壊しつつある形態、人が人としての条件を消失し無に帰していく)をイメージした作品である。切なくも人間の条件を失い入ってきた幕間のステージ・・・絶望の中にも向こう(現世)を懐かしんでいるであろう、否、そうであって欲しいと願うマグリットの空想(超現実)である。
わたくし(マグリット)は、《この作品の中のずっと向こう・・・あの嵐のような暗雲垂れ込めた空の下にいて、これを描いている》という切ない距離感、測り知れない隔絶を描いている。
(そして描いている現実のわたしは幕間の手前にいて、死んでしまった母を待っている位置にいるという仮想、円環)