続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

物忘れ。

2014-07-17 06:34:10 | 日常
 物忘れ・・・昔から物忘れの名人だったから、世間でいう成績のほうはいま一つ、と言うか、端から覚えようとする意志の欠けた子供だったような気もする。

 そういう子供であったわたしは、世間並みに老後の域に達した今、人並外れた忘却力に戸惑いを感じている。
「みんなそうよ」と、友人たちはお互いを慰めあっている。
 しかし、わたしのは幼少時から鍛え上げた忘却力である。(比較にならないわ)などと声高に言うのも恥ずかしいので黙っているけれど、それはそれは・・・ひどい。

「ええと、何しに来たのかな」「何でわたしはここに立っているの」「次は何をするんだっけ?」

 自分という存在がぼやけて見えないほど混乱と失意の中にいる。

 とにかく、分かっていることを、今、しよう!
 でないと、次につながらない。

 大事なことを忘れているのではないか、という不安は常に付きまとっている。何かがどこかで他人事のように欠落し、崩壊していく。その何かの正体が見えない。
(まずいな、まずいな)この動揺を打ち消すためにTVという他人思考に嵌り、ひたすら何かを食べ続けているという堕落した日常。


《これがわたしなのだ!》と開き直って笑ってしまうこと。精神の浄化作用は案外易しいことなのかも知れない。(けれど、それではわたしは空無に帰していく・・・)いえいえ、それでいいのだと・・・いえいえ、そうでしょうか。
 道に迷ってばかりのわたし、《道は自ら作るのだ!》という気概が欲しい。

 考えてみると物忘れなんて、本当は強い味方。過去のことを忘れたいばっかりに忘却力が増幅したのかもしれない(バンザイ!)

『ポラーノの広場』399。

2014-07-17 06:14:06 | 宮沢賢治
わたくしはすっかり事情を探ってからデステゥパーゴに会はうか、警察に行って、イーハトーヴォでさがしているデステゥパーゴだと云って押へてしまっもらはうかとそのときまで考へてゐましたがいまデステゥパーゴの家のなかへはひるのを見るともう前後を忘れて走り寄りました。


☆字を常に探し、界(境目/現世と来世)を継ぐ考えを、運/めぐらせている。
 往(人が死ぬこと)の講(はなし)は化(形、性質を変えて別のものになる)で現れる。
 全ての語(言葉)を剖(切り分ける)と、双(二つ)の記になる。