続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

感謝。

2014-11-06 06:49:02 | 歩こう会
 よもや参加することは適わないと、心に決めていた今回の歩こう会。欠席という言葉が咽喉に痞えるのをどうにか鎮め、無理強行の参加。

 不安で浮かない表情を悟られまいと俯き加減、JR逗子駅で降りたときには腰に痛みが発症(ああ、どこかでギックリ腰になってしまったらどうしよう)「わたしは集合場所で失礼するわ」頭の中で繰り返す断り。
「どこで退こうかと考えているの」と同行のOさん、「わたしも・・・」力なく肯くわたし。

 集合場所の逗子市役所前に行くとみんなが待っていて満面の笑顔、それにつられてわたしも笑う。
《さあ、今日も元気に行こうぜ》というムード。

 錯覚とは怖ろしい、その場の雰囲気に圧されて(あら、わたしも元気になっちゃったみたい)

 歩き出すと腰の痛みは消え、ただひたすらみんなに付いて行く。(なんとか歩けるわ!)

 逗子市役所~あじさい公園~三ヶ丘緑地は高低差のある階段があるというのでわたしはここから直、森戸神社へ向かい、残念だけどコースを省略。昼食後は逗子の鐙摺(あぶずり)/葉山港~逗子駅まで約10キロ程度を歩き徹すことが出来た。
 一万七千歩・・・家の中でよろよろ350歩くらいを歩いていることを考えたら十分な成果。
 グループの皆様に感謝。本当にこの情けないわたしを歩かせてくださって、ありがとうございました。
(写真は逗子/あじさい公園から見た江ノ島)

『ポラーノの広場』500(了)

2014-11-06 06:15:49 | 宮沢賢治
『ポラーノの広場』というのは一つの夢の共同体ではないか。幻想であると同時に、確かに存在したであろう原初の形。
 Planet(衛星)の広場・・・太陽系のなかの地球、そしてレオーノというのはしし座を暗示し、天空そのものの世界を見渡しているのだとも思える。ファゼーロは17ばかりの子供とある、自由な死地(冥府)の父なるものではないか。ミーロは母なるものであり、ロザーロと見分けが付かない天空の二重星・・・あの世をもう一つの宇宙に擬えているのではないか、わたくし(宮沢賢治)は現世から冥府へと出張しているという設定に思える。つめくさは天空の星々であり、山猫博士は太陽であって、黄いろのシャツの山猫が来ると(現世)では雨が降ると歌っているのではないか。

 この壮大な構図、景色の中で、声を高くして繰り返している言葉は「平等」(ショウ/照→普く光があたる=平等)なのだと確信する。つまり太陽さえも良いことも悪いこともある存在であってその償いを果たす広場が「ポラーノの広場」という幻の未来(かつては過去に存在していたと確信する広場)であり、人はどこまでもそれを探し続けているという想定なのだと思う。
 明確に、しかし二重の風景として隠しているこの物語は難解さを伴っている。再読を強いる物語と言ってもいいかもしれない。

『城』1787。

2014-11-06 05:50:50 | カフカ覚書
「彼らをもう一度ここに入れてやれと言うのだね」
「いいえ、双じゃない。わたしは、そんなことはちっとものぞんでいません。ふたりがどっとここへとびこんでくるときの光景、わたしと再会するときのあの人たちのよろこぶ様子、子供のようにはねまわったり、一人前の男のように腕を差しのべたりするありさまーわたしだって、そんなのをとても我慢して見ているわけにはいかないかもしれません。


☆「彼らをもう一度ここへ入れてやれというのかね」「いいえ」とフリーダ(平和)は言い、「わたしは少しもそうは思いません。ただ突進してくるときの光景、わたしを再び見るとき、彼らは子供のように飛んでくる様子はとても耐えられません。
 死に至った人のように哀れに手を差し出す光景をわたしはとても我慢して見ていられないかもしれません。