続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『グループ展』を観にいく。

2014-11-16 06:59:21 | 日常
 気づけば、今秋は一つも展覧会を観ていない。何か観に行こうという意欲がわかない。(長年そうしてやり過ごしてきた、もったいないとも思わずに)少なくとも人生の指針として「美術」に関わりたいと願って来た人間としてはあまりにもお粗末な日常。

 美術と無縁でいると楽である。美術というより何もかもと無縁でいると本当に気が休まる閉塞好みのわたし・・・一種の病気、無為に過ごす日々にうっとり身を沈める恍惚は、快活な人たちからは軽蔑され、不審をかわれているかもしれない。


 そんな風な日常ではあるけれど、義兄や友人のグループ展には義理がある。何を圧しても行かねばならない!と、決意して行く。義理というものはありがたい、わたしを歩かせてくれる。義理がなければ、わたしは家に閉じこもって死んだも同然の暮らし。(ああ、これはあくまでも内緒の話)
《観たくて参上仕りました》この笑顔、この前向きを会場に向かう前に自身に叩き込む。

 けれど会場内に入ると、そんな安っぽい芝居じみた気持ちは吹き飛んでしまう。作品を前にすると優しい情熱がわたしを静かに鼓舞する。情けないわたしを奮い立たせ、(あんたも一緒に頑張ろうよ)と囁かれている気分。
 作品はそれぞれ語りかけてくる。
 小さな画廊の小品群であるにもかかわらず、メッセージが重なり合ってわたしの胸に響く。来ることが義理だなんて凡そ貧相な考えは霧消し、《来てよかった、見せて頂いてありがとう》という気持ちに変化していることに気づく。


 怠慢は横柄である。(ごめんなさ)と謝りたい。
 昨日伺ったグループ展に癒され励まされている今日のわたし。

『畑のへり』10。

2014-11-16 06:50:56 | 宮沢賢治
あの幽霊にかじられたら、もうとてもたまらんぜ。かあいさうに、麻はもうみんな食はれてしまった。みんなまっすぐな、いい若い者だったのになあ。ばりばり骨まで嚙じられたとは本当に人ごととも思はれんなあ。」


☆憂(心配、悲しみ)を励(力づける)真(まこと)の自記である。
 二役の視野(見解)を乞う講(はなし)である。
 翻(作り変える、形を変えてうつす)を套う図りごとの詞(言葉)がある。

『城』1796。

2014-11-16 06:31:22 | カフカ覚書
だから、きみがいまぼくにきみと助手たちのどちらかを選べと要求したら、それだけでもう助手たちの運命は、おしまいも同然さ。きみと助手たちのどちらかを選ぶなんて、まったくばかばかしい考えさ!


☆だから、きみがいまわたしと助手(脳、知覚/精神)の間で選択を促されても、それだけでもう助手(脳、知覚/精神)はすでに失われている。ただ、それを望めば、最終的には自由がある。