続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

海老塚耕一先生の授業。

2014-11-30 07:17:55 | 美術館講座
 横須賀美術館『境界へ、水と風から』の作品展におけるイベントに参加してきた。「フロッタージュでつくる・・・」

 先生を囲み、館内の床に座りながらのお話。
「皆さん、右手を左手の甲に当てて摩ってみてください。そうして今度は逆に左手の甲で同じ事をして見てください。違うでしょう。違っているのが分かるでしょう」と、先生。
「!・・・?」違っていることに気付かないわたし(ぽか~ん)
 厳密に言えば左右同じではないし、その機能にも差異がある。でも、感触として手の甲を並べて見ても相違があると感じたことはない。
 けれど、「違いますね」と言われれば肯くしかない(この空気)、というか、他の人が当たり前に感じているようなこの差異にすら気づかなかったわたしは、美術(芸術)に触れようなんて百年早かったのかもしれないと、愕然としてしまった。
 さりとて「いいえ、先生、わたしは同じです」なんていう強い根拠もないけれど、(左右の手の感触の相違を敏感に感じ取っていることのほうが驚異ではないか)大雑把、ガサツなわたしの落胆。

 そうしている間にも、本題であるフロッタージュについての説明。
 先生は「拓本のようなものです」と仰り、床に薄紙を当て、鉛筆を斜めに滑らせて床のわずかな軋みを写し取って見せてくれた。どの作品にも触れて、紙を押し当てフロッタージュして構わないという。
 会場に展示された先生の作品に、色鉛筆やクレヨンなどを押し当てて形をあらわにしていく作業。先生はアフリカから取り寄せた硬質の木材を使用しているとかで『水の器』と題された作品を持ったところ、確かに重い。比重は1.3(えっ、水に浮かないの、木が?)水の器ってどういう意味なのだろう。長い時間、水を受け続けても腐食しないということなのか。水に対峙しうる器・・・器は智恵の原初である、そして水の総量は地球の原初から変わらない。大きく捉えれば、人類の英知が自然に対峙していることの凝縮とも思える作品である。幾つもの羅列はある意味、生命発生(人間としての)の原初を暗示しているのかもしれない。


 AをBに写し取る作業は極めて単純である。単純であるゆえに次第に飽きてくるけれど、写し取られた意外な連続模様に楽しくなり、逆にそのものから励まされているような鼓舞されているような錯覚を感じる。参加者のそれを並べて見ると、思いがけないパッチワーク風の仕上がり効果があり、美しいものになった。
 作為なき作業に没頭する、多くの参加者が熱心にフロッタージュする光景は、ある種エネルギーの分散であり集結にも見えた。

 不思議に楽しい時を経てワークショップは終了。

 自然のつくる形・・・雨風、時間などで酸化していく宿命の有機物質。風(空気の流れ)と水(液体の流れ)、地球を構成している無機物質の変動や堆積。自然の変移、エネルギーのせめぎ合いを沈黙の形として作品にしている海老塚先生の仕事は、闘いのような印象を受けた。

『畑のへり』24。

2014-11-30 06:56:46 | 宮沢賢治
「あゝ、よく見える。何だ手が十六本あるって、おれには五本ばかりしか見えないよ。あの幽霊をつかまへているよ。」

 見えるはケンと読んで、兼。
 何だはカと読んで、化。
 手はシュと読んで、趣。
 十六本はトウ・ロク・ホンと読んで、套、録、翻。
 五本はゴ・ホンと読んで、語、翻。
 見えないはゲンと読んで、現。
 幽霊はユウ・リョウと読んで、有、両。

 
☆兼ねている化(教え導く)の趣(考え)を套って、録(文字に書き記し)翻(作り変えている)。
 語(ことば)の翻(作り変える、形を変えてうつす)で現れる有(存在)は、両(二つ)ある。

『城』1810。

2014-11-30 06:38:58 | カフカ覚書
ハンスが口辺にうかべているかすかな微笑は、これが一種の遊びにすぎないことを彼が十分に承知しているということを語っているように見えたが、彼は、遊びであるだけにいっそうまじめに問題を扱っていた。もしかしたら、彼の口辺にただよっているのは、笑いなどではなく、少年時だの幸福であったかもしれない。


☆ハンスが口辺に浮かべているかすかな復讐心は一種の芝居にすぎないように見えたが、彼はいよいよ真剣に問題を扱っていた。もしかしたら口辺に漂っているのは、小舟に対する復讐などではなく、子孫としての幸福なのかもしれない。