続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『白紙委任状』

2015-07-01 06:34:42 | 美術ノート
 馬に乗って進む女性が、林立の樹木の間に見え隠れする。というか空間を不条理に切り、見え隠れするという態であり、いわば二つの空間(景色)の合成でもあります。

 瞬時、鑑賞者の眼は錯覚、錯視を起こします。林の中を馬に乗った女性が進んでいく景色であると。
 しかし、そうには違いないけれど、この状態は奇妙であると気づきます。

 そして、最終的に違和感を抱きつつも二つの場面を一つにまとめるという知覚作用によりどこかで納得してしまうのです。肯定・否定・大いなる肯定(納得)・・・肯定と否定の混在。


 眼差しというものは、見えない対象(部分)を、過去のデーターの集積により補正(修正)する作用がある。見えない部分をつなぐことを可能としてしまう。
 日常的なまなざしは、作品に対し好意的に作用するのかもしれない。疑いない事実がそこに存在するのだと。


 けれど、マグリットは見えるものを見えるように描いていないという自負を(実は)抱いている、ここに企みの意図が隠れていることを自身が一番知っているが、解釈を拒む姿勢である。


 だからこその白紙委任状。
『わたくしの作品をどのように見ても構いません。見えるように見てください、ご自由に。決して異議は唱えません』というマグリットの鑑賞者に対する心遣いである。

(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

『銀河鉄道の夜』3。

2015-07-01 06:26:32 | 宮沢賢治
 カンパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョパンニも手をあげようとして、急いでそのまゝやめました。

 手はシュと読んで、衆。
 四五人はシゴニンと読んで、死後・忍。
 手はシュと読んで、趣。
 手はシュと読んで、主。
 急はキユウと読んで、杞憂。
 

☆衆(人々)の死後を忍ぶ趣(狙い)が主の杞憂(無用の心配)である。

『城』2008。

2015-07-01 06:15:33 | カフカ覚書
これは、いまではもうまったく授業の邪魔にならなかった。生徒たちは、とっくに慣れっこになっていたからである。シュバルツァーは、子供たちに愛情も理解ももたずに、ほとんど口もきかず、ギーザの体操の授業だけを引受、そのほかはギーザの体温の感じられる身近に生きていることだけで満足しているというありさまであったから、子供たちにすれば、慣れっこになるのも容易だったのかもしれない。


☆それは全く妨げにならなかった。子供(子孫)たちはすでにとっくに慣れており、シュバルツァー(影の人)は子孫に対し好意や理解に至らず、ほとんど言葉もなく、企てを整え、その他はギーザ(総体)と同じく空虚であり、ギーザ(総体)の熱心さを感じられる近くにいるだけで満足していた。