続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『アルンハイムの地所』付記。

2015-07-25 06:23:49 | 美術ノート
 確かにこの月は在る。しかし、見たことがない。

 何故か。
 真昼に月は見えないからである。三日月は太陽が沈んだ夕刻になって現れ(見え)二十六日の月は明け方に見えるが、日の出とともに消え失せてしまう(見えなくなってしまう)。
 三日月も二十六日の月も、地平に垂直に立つ時刻(南中)は、真昼に相前後するから、太陽の光に遮られて見ることは適わない。

 だから、マグリットはあえて、星まで描いてこの月をこの形(地平に垂直に立つ)を選択したのである。(真昼に星は見えない)

《見えない月を見えるように描く》つまりは有り得ない空間を出現させたのである。
 鳥(鷲or鳩)の形態を模した山岳、不毛の地であれば生物は育たない。
 にもかかわらず、鳥の卵がある。いくら鳥に酷似した岩石でも卵は生めない。無機質は残存を可能とするが、有機質は死滅(消失)の定めにある。卵の置かれた開口部も人為的な建築物の一部である。
 これら条件の摩擦、不具合、不条理の極みを描き出して『アルンハイムの地所(領地)』と題したのではないか。

「想像力(イメージ)の限りをもってすれば、究極の虚空間(幻の場所)はあたかも存在を可能とする」という強いメッセージを感じる。

 生と死、深夜と真昼の交錯、『在るけれど、無い。無いけれど、在る。』
 目に見えるものを信奉するけれど、眼に見えないものも確かに在るのだと。真昼の月を闇の中に描き出したマグリットの深い凝視の眼差しが、この作品に隠れている。
 精神界はこのように解放されている。イメージの限界なき世界である。

 

(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

『銀河鉄道の夜』27。

2015-07-25 06:16:33 | 宮沢賢治
それはこんやの星祭に青いあかりをこしrへて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。


☆章(文章)を省(注意して顧みる)と、千(たくさん)の縷(糸のように細い)迂(回りくどい)趣(考え)がある。
 講(はなし)には双(二つ)の段(次第)がある。

『城」2032。

2015-07-25 05:56:10 | カフカ覚書
Kは、ときおりそうした点をよく考えてみようとした。それに、シュヴァルツアーのやつは、最初の晩以来おれに借りがあるはずだ。それ以後きょうまでお経過からすると、ほんとうはあいつの応対ぶりが正しかったことになるのだが、この借りは、そのことによっても軽減されたわけではない。


☆Kは、機会があればシュヴァルツァー(影の人)のことを考えてみたいと思った。最初から終末(死)でもなお罪過があるはずだというが、小舟が明るみになり、シュヴァルツァー(影の人)が受けた厳密な訴訟では、氏族に罪過はないのだ。