続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『ピレネーの城』

2015-07-22 06:23:47 | 美術ノート
 有り得ない光景である。
 巨岩石が宙に浮かぶ、しかもその上には厳然たる城が存在している。どこまでも続くであろう空と海。波はよほどの大波かもしれないが、この巨岩石を脅かすものではない。全体としては静かな波乱のない空間である。

 水平線はずっと下位にある、であれば、巨岩石の上にある城を望むことは不可能であり、見えない幻にすぎない。巨岩石を描く視線はずっと上方にある。つまり二つの視点からの合成によってこの作品空間は成り立っている。二つの状況は欠くべからざる条件としての選択であるが、不自然さを感じられないところにマグリット特有のトリックがある。

 世界の条理に比重という考え方がある。それによれば、海面に浮かぶことすらない岩石は当然沈み込み海底深くの地層に落下すべきものである。
 明らかなる不条理、嘘、欺瞞がこの作品においてまかり通っている、不条理が世界を席巻しているのである。

 
 しかし、これらの想定は物質界の規定であって、精神界にはその束縛はない。自由に空も飛べるのである。わたし達は物質界の条理を観念的に理解し従順に従わざるを得ない立場にいるので、精神界の自由も影響されがちである。

 けれども、見よ! 重く落下すべき岩石は見上げるほどに高い空に鎮座し、わたし達を見下ろし君臨している。そういう権力、支配力を知らず知らずに受け入れ、むしろ敬意を抱き、崇めているのではないか。


 大空や海の自然(宇宙)は静かにそれを見つめている。『ピレネーの城』が石化し過去の彼方へ忘れ去られても、わたし達の胸の中から空に浮かぶ信奉の有り様を否定することは論外である。


 物質界の束縛(不自由)はあっても、精神界の解放(自由)は心の支柱を求めている。善悪や真偽で切り捨てられない現実世界の幻に翻弄されることを、あえて由として甘受しているのかもしれない。

 是非は問わない姿勢が、冷静なるマグリットの視点である。

(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

『城』2029。

2015-07-22 05:59:49 | カフカ覚書
だが、それにしても、たかが助教員のシュヴァルツァーがKよりはるかに優越した存在だと思いあがっているのは、けしからんことだ。そういう優越などは存在しないのだ。


☆それにもかかわらず、シュヴァルツァー(影の人)が、空虚に乗じてKより特別にあちら(死)に向かっている存在だという優越は間違っている。