続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『夢』

2015-07-19 07:29:11 | 美術ノート
 女は瞑想している、すでに女である理由を知った成熟した婦人のように見える。
 うつむき、全身の裸体をさらしているが、恥じらうべき様子はなく、むしろ堂々とその存在を知らしめている。性的誘惑の情念を打ち消した一個の人間の証といった風情を感じる。

 肉体の尊厳、女であることの人間の証明のような威厳がある。しかし、驕りや虚飾は微塵もない。誇らしげな自慢の態では決してなく、ありのままを提示している。


 女は、岩(岩石)を抑えている。(主なる神はとこしえの岩だからである/イザヤ書)

 これこそ、ついにわたしの骨の骨
 わたしの肉の肉
 男から取ったものだから、
 これを女と名づけよう」。  (創世記より)

 女はそれを否定しているのかもしれない。
 女の影は、女をそのまま映している。女の過去、先祖も彼女に等しい意見をもっているという告訴のようにも見える。どんなに遡っても、この主張は同じである。

 薔薇に象徴されるような死すべき身体であっても、恥ずべき身体ではない。女は目を閉じている。深い思いの告発である。

 なぜ隠す必要があるか!《原始女は太陽であった》という言葉に匹敵する大胆告発である。

 しかし女は海(自然)を背景に、うつむき静かに沈思黙考する。

『夢』女の本来の希望・尊厳、これらは夢に過ぎないのだろうか。確固とした女である存在証明である。

夏休み。

2015-07-19 06:43:43 | 日常
「夏休み」…これほどうれしい響きを持った単語はない!と断言してもいいほど大好きな、待って待って焦がれた夏休み。
 
 何をしたいという前向きな目標があったわけではない。学校へ行かなくていい、ぼんやりと自由に過ごしていいという解放感は酷暑など問題でないほどの歓喜だった。


 誰にも会わなくていいという閉塞、安心。時が黙って流れていくという空漠…すでに半世紀を経た今日でも同じ感想を抱いていることに気付く。

(なんという寂しい子供時代だったのだろう。何という寂しい人生なのだろう。)可哀相なわたし、取り返しのつかない忘れ物をしているかもしれない。このままずっと、人生の欠損部分には気づかずにいたい。

 夏は海、夏は山と言ったイベントとも無縁。考えてみると、海へは毎日行くだけは行った。何もすることがなかったからである。ボオッと砂浜で陽に焼け、熱い砂浜と海中を行ったり来たり。ただそれだけ・・・。
 夏休みの宿題にも積極的な回答は出せず、自由研究や何かの創作などというものも、期間中には困惑と焦燥が諦念に変わるだけ・・・。


 それでも、それでも、学校に行かなくていい日々の連鎖は、わたしにとって至福だった。その始まりが七月二十日、通信簿などは記憶にない(忘れたい)。


 こうして書いているうちに、夏休みは嬉しい思い出ではなく、悲しい哀れな思い出に過ぎなかったのではないかという疑念がわく。
 でもね、やっぱり夏休みは一年に一度開く自由の扉。狂うほどに酔うほどに嬉々とした気分を、今も持ち続けている。夏休みバンザイ!

『銀河鉄道の夜』21。

2015-07-19 06:32:10 | 宮沢賢治
私どもの太陽がこのほゞ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとしmす。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方のレンズが薄いのでわずかの光る粒即ち星しか見えないのでせう。


☆詞(ことば)の他意は庸(一定不変、変わらない)。
 注(書き記す)字を究(つきつめ)勤める。
 予(わたくし)の注(書き記す)律(物事の基準となる決まり)は忠(まごころ)が源である。
 法(神仏の教え)を吐く(言う)講(はなし)がある。
 流(形を成さないで終わる)章(文章)を兼ねている。

『城2026。

2015-07-19 06:19:20 | カフカ覚書
それでも、こうした生活法のもろもろの結果が、彼の場合もときとして(しかし、ギーザのいるところではけっしてそういうことはなかった)ほんの束の間よみがえる役人的高慢さの滑稽千万な発作としてあらわれることがあった。


☆ともかく、常にこうした伝記の習慣が、彼の場合もときとして、しかしギーザ(総体)のところでは決してそういうことはなかった。再びの機関の監視は使命としての自負であり、復讐の発端にもなった。