『美しい虜』つまり、『まことしやかな魅了』ということだと思う。
確かに普通に鑑賞するというより、異なる意味での仕掛けに心を奪われてしまうという作品である。
この風景画には巧みに隠蔽されたもう一つの空間(景色)が内在する。
まず、平原の大木が避けようもなく存在し、視線を集中させる。強い線引きである黒く太い線はこの作品の、ある意味、意味のない対象物に見えるが、この線がキャンバスの描かれた不思議を弱めるという重要な働きをしている。もちろん問題の核はこの風景に同化したようなキャンバスの絵にあり、関心はそこに集中せざるを得ない。
描かれた作品が描いている景色に合致するなどと言うことは現実にはありえない。しかし、作品においてはそれがあたかもそういう一致が真実であるかのような錯視を印象付けている。
キャンバスに描かれた景色がキャンバスに隠れているか否かは不明である。あると思えばあるし、無いと思えば無いという不確実性を描き出し、幾重にもイメージを展開できる構成になっている。
平原に見えるが、俯瞰の図であり、小高い位置から見下ろしている。
この牧歌的な風景は、精神を奇妙にざわつかせる。この作品を受け入れながら、どこか違和感を拭えないという計算された『まことしやかな魅了』の結実である。
(写真は新国立美術館『マグリット展』図録より)
確かに普通に鑑賞するというより、異なる意味での仕掛けに心を奪われてしまうという作品である。
この風景画には巧みに隠蔽されたもう一つの空間(景色)が内在する。
まず、平原の大木が避けようもなく存在し、視線を集中させる。強い線引きである黒く太い線はこの作品の、ある意味、意味のない対象物に見えるが、この線がキャンバスの描かれた不思議を弱めるという重要な働きをしている。もちろん問題の核はこの風景に同化したようなキャンバスの絵にあり、関心はそこに集中せざるを得ない。
描かれた作品が描いている景色に合致するなどと言うことは現実にはありえない。しかし、作品においてはそれがあたかもそういう一致が真実であるかのような錯視を印象付けている。
キャンバスに描かれた景色がキャンバスに隠れているか否かは不明である。あると思えばあるし、無いと思えば無いという不確実性を描き出し、幾重にもイメージを展開できる構成になっている。
平原に見えるが、俯瞰の図であり、小高い位置から見下ろしている。
この牧歌的な風景は、精神を奇妙にざわつかせる。この作品を受け入れながら、どこか違和感を拭えないという計算された『まことしやかな魅了』の結実である。
(写真は新国立美術館『マグリット展』図録より)