林の中を馬で進む女性が奇妙な具合に描かれている。その姿はちょうど四本の樹木に絡んで見え隠れしている。見える筈のところに姿が描かれず、見える筈のところを馬より後方にある樹木に隠されているという構成である。
ずっと後方にある樹木が彼女(馬)を隠すなんてことは、現実にはありえない。明らかに空間に不備がある。それは樹木の根元を見れば明白な事実であり、遠近法に従って樹々は手前から後方へと並んでいる。
馬(彼女)の身体が樹木でない遠方の空間によって隠されることもあり得ない。この作品を凝視していると疲労感を覚える。(嘘だろう)という嫌疑、(こんな風に見えるのだろうか)という虚脱。自身の眼を疑い、自然の原理を再考する。
(この作者の意図は何だろう)
見えていることの信憑性は論理的な学習によっても確実だという裏付けがある。なのにこれは何なのか・・・。機能としての視覚作用は常に正しいという思い込みがあるが、視覚作用には幻影という心理の狭間がある。それは物理的には証明されることはないかもしれない。
見ることと、見えていないことの波動はイメージを錯誤(混乱)させる。わたしたちは、目の前の壁の中にさえ空想の絵図を描くことが出来るのだから。そんなふうに、見えていることは見えていないものを隠し、見えていないものを突如として思い描くことが出来るのだから。
そして、見えていない空白部分は、既存のデーターから引出し、つなぐという無意識の心理作用がある。
この作品は真理(物理的現実)と心理(心象の幻)との複合的な視野の証明であり、無言の署名(承認)としての作品ではないか。『白紙委任状』はマグリットから差し出された問いであり答えかもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)