続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『色彩の変化』

2015-10-12 06:51:06 | 美術ノート
 床面に枕、壁(垂直)には白黒(ゼブラ)模様の面とモノクロの面があるが、その距離関係は分かりにくい。なぜなら、変形(五角形)のフレームの影がモノクロの面だけにかかっているからである。
 フレームが白黒のバックに付着したものであるなら、光りの方向から考えて、影は白黒の面を持つ面の影もなければならないが、それは無い。(影が出来るべき位置は模様(白黒)の黒い部分に当たっているが、隣接の白い部分にも、わずかに影が生じなくてはならないのである)
 ということは、フレームは、モノクロの手前にあり、白黒(ゼブラ)の面はフレームの影の届かない後方/遠方にあるということである

 一見すると白黒の面とモノクロの面はフラットに続いているように見える。むしろ白黒の面はその躍動感ある模様から手前に出てくるようにさえ見えるという錯覚を覚える。

 モノクロ(グレー)の壁と床面は直角に接しているのだろうか、そう見えるように、枕(クッションでその接線は隠しているが、必ずしもそうではない可能性も見逃せない。

 フレームの中の青は空を、白いものは雲を想起させる。つまり、ずっと向こう、遥か彼方という感覚が潜在意識の中にある。(白いものは雲を連想させるが、あるいは得体の知れない頭部という感じもする)
 そして右側の黒(暗黒)はそれこそ、最も深遠を示唆する色である。
 このフレームは真正面から見ているように描かれているが、フレームの上部の側面と下部の側面、そして左右のそれぞれの側面がいずれも均一に描かれているのには違和感がある。陰影がある以上、立体だと思うが、遠近法から見て決してこうはならない図なのである。

 フレームに描かれた暗示は手の届かない遠方(空、暗黒)であるのに対し、背後の白黒タッチの平面は人の目を手前に惹きつけるものであるが、少なくともフレームの影の届かない背後にあるはずである。
 その中間に位置するグレーゾーン《枕・フレーム・壁・床面》は境界としての位置関係を示しているように描かれているように見えるが、その実、奇妙な有り様である。ありふれた枕を配置することで日常的な普通(現実)の空間のように錯覚してしまうところに、マグリットの策がある。

 枕(クッション)はモノクロの壁の手前にあるが、フレームの前にあるかは不明である。通念として枕よりフレームが手前にあるはずがないという思い込みがないだろうか。
 しかし、もし枕ではなくほかの物(たとえば花であったり・・)であれば、軽々とその上を浮遊するイメージを抱くかもしれない。


 この作品は、色彩/Colourは気分あるいは調子という意味であり、錯視によって曖昧な位置関係がChangeする構成になっているように思う。
 重力により落下するはずのフレームがモノクロの壁に沿って浮き、白黒の壁に固定されているのかと思えば、それはさらにずっと後方にあるという位置関係である。
 鑑賞者はその位置関係に惑わされつつ、その特性(Colour)によって視界を変化(Change)していかざるを得ない、という計算された構成である。

 視覚の渾沌は視覚を迷路に誘引する。それは変化というよりは心的不安を誘うものではないか。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)

『銀河鉄道の夜』106。

2015-10-12 06:38:03 | 宮沢賢治
そしてジョバンニは青い事の星が、見つつにも四つにもなって、ちらちら瞬き、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、たいとう蕈のやうに長く延びるのを見ました。


☆照(あまねく光が当たる=平等)は金(尊いく)祥(幸い)である。
 惨(残忍な)死の悛(過ちを正すし)却(しりぞける)果(結末)を推しはかる。
 因(事の起こり)を顧(ふりかえり)訊(問いただす)。
 聴(注意深く聞くと)掩(かくれたもの)が現れる。

『城』2111。

2015-10-12 06:21:47 | カフカ覚書
お昼から具合が悪くて、この長椅子に寝ていたのですもの。けれども、あの子は、わたしたちのことなんか気にもとめてくれませんが、わたし達は、あの子を頼りにしているのです。もしわたしたちのことであの子が助言をしてくれたら、わたしたちはきっとあの子の言うとおりにするでしょう。しかしあの子はそんなことはしてくれません。


☆集会については、真実でないと不安でいたのです。けれどもあの子がわたしたちを考慮することはありません。わたしたちが最古の存在であった時の、わたしたちの問題を言い当て、向きを変えるのです。
 わたしたちは彼女に従いますが、彼女は何もしてくれません。