花瓶が置かれているのは窓際だろうか。
花瓶に挿してあると思われる花々は、無差別な彩色で平面化され隠されている。
明らかに盛られた花々を想起させる影である。しかし、本当に花だったのだろうか、花としか思えない条件と形体である。花瓶には当然花が飾られているはず、という思い込みは消せない。
それは、然るべくまっとうな景色だという確信さえある。
窓の下方には草が生えている、室内ではない外の条件である。そこに草花が重複したとしてもおかしくない構図かもしれない。同じ対象物が重なるという手法はマグリットにおいて常套手段ともいえるから、そうである可能性は大きい。
鑑賞者がこの作品の前に立ち、消された花々を想起することは容易である。
しかし、《なぜ?》という疑問、腑に落ちない気分は鑑賞の気概を著しく害す。
稲妻は、雷の発光・放電現象である。感電だろうか、樹木ならともかく、花に落雷は聞いたことがない。
しかし外の景色だとしたらそれは十分あり得る。
稲妻の暴力的な脅威は、すべての景色を束の間、網膜から奪い取る。見えているものを見えなくする。有るけれど無いという状態を創りだす。
稲妻(物理的現象)が物理的視界を隠し、心理的な光景を垣間見せるという瞬間を切り取った作品ではないか。対象の見え方(実体と想念/イメージ)を探究し続けたマグリットの眼が、ここにある。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)