この作品(1930年)を描いた後(1936年)に『透視』という卵を見て成鳥を描くという作品を創作している。
マグリットには、常に考えていた《生死、起源と未来》という基本的な想念がある。
DNAを辿るとアフリカのお母さん、あるいは幾つかの始まりの因子が論究されているが、人類の根源、始まりの始まり…そして尽きることなく連鎖していくであろう生命の根拠を思考すると、やはり女体の神秘に行き着くのかもしれない。
顔(頭部)・胸部・腹部(陰部)・膝上・脚(足)・・・切断された各部の意味は何だろう。残酷でもあるこの提示は鑑賞者に曝しているという印象を受けるし、鑑賞者の方も一歩退くという冷めた距離感がある。
額に掲げるという行為は、象徴性がある。しかし、なぜ各部位を切り離す必要があったのか。鑑賞者は当然、その部位をつなげて一個の女体として完成させる。切り離すということは「死」を意味するが、この場合、なぜ死を想起させないのだろう。
明らかに生きている、しかし、死んでもいるのだという提示に気付くことはない。こちらを見ている見開いた眼(まなざし)、なによりも直立しているという条件は死をイメージさせない。
各部位は、単なる対象物のように描かれている。女体を想起させるが女体を否定している。
この作品は、《切り離されてはいるが、女体であることは当たり前である》という想念(印象・イメージ)を覆すものである。
情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。(マタイによる福音書より)
女体とセックスには深い結びつきがある。これを罪とするならば、生命の連鎖、歴史は続行しないし、人類は滅びるばかりである。しかしこの作品に情欲をいだくだろうか。
情欲を遮るものとしての静かなる否定。
『永遠の明証』とは、女の誇り、尊厳の明証ではないか。『生命が存続することの神秘はここにある。しかし、その眼によって犯され得ないものでもある』という立証。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)