嵐というのは、空暗く波高い光景でそれと判断が付く。しかし、装いに関しては首をひねらざるを得ない。平面状の物を折りたたみ、任意の形の穴をランダムに開けて広げた形状。それらが、あたかも人間よろしく林立している。
なぜ人間に見えるか・・・大まかに見た形と立っているという条件から、人間ではと推測される。その人間らしきものはどこを向いているのだろう。
一見、嵐を危惧して海を見ているように感じるが、眼差しの方向は不明である。
それらの影は海側に落ちている、ということは光は画面の手前からに違いない。大いなる矛盾、光のない茫漠とした嵐に自然光はなく、空は見ての通り暗黒である。
では、この林立した物体(人間に見えるもの)に影を作っているのは何なのだろう。海岸に接した地平は室内には見えないが遮る壁があることから、室内のようにも見える。室内の灯りだとすると、かなり強力である。少なくとも嵐吹き荒れる海の景色とは隔絶された世界である。
そして、見ているうちに、この砂浜と思える領域は、床面であることに気付かされる。
中央辺りに見えるのは難破船だろうか。至近に見えるが、描かれた船の小ささから推して、相当離れた距離関係にあることが分かる。
彼らは、この船を俯瞰している、この嵐を傍観しているのではないか。この刻まれた者たちが立っている場所は異世界である。
この白い刻まれた紙状のもの達は、直立しているということから人間を想起しているが、立っていること自体有り得ない。この条件は地球(現世)の法則から外れている。
存在しているように見えるが非存在なのではないか。透明人間は描けないが、向こうが透けて見える人間らしきものは描くことが可能である。だから対称に切られていることや模様には意味がないかもしれない、唯一向こうが透けて見える《居るけど、居ない》そういう対象としての置換である。(新しい幽霊の形である)
遠い世界(冥府)から現世の嵐(混乱)を眺めているかもしれない。(あるいは眺めていないかもしれない)すでに肉体を失った亡霊が《架空の装い》で《暗黒の嵐吹き荒れる現世》の方をを眺め下しているように見える光景ではないか。
マグリットの向こうからの写生である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)