『ゴルコンダ』
数多の男たちが宙に浮上している、しかも立ち姿であり、飛行のポーズは皆無である。
絶対に有り得ない光景であり、鑑賞者の眼差しも地上から空中へと自在に浮遊する仕組みである。高低差に関係なく鑑賞者の視点は仰ぐことも見下ろすこともなく直視できる虚空間としての画面構成になっている。
つまり、この空間はわたしたちの知る空間ではなく自由自在なものであるが、空間は見えないので、それを実証する手がかりがない。
ただ、距離を測る手立てとして《影》があるが、建屋と人物の距離間に不自然さを確認することができる。こちらも不自然なのではなく、鑑賞者の眼差しが左右に動かされていることなのかもしれない。しかし屋根の部分の影を追うと、倒立した男の大きさは同じ平面上にあるように見えるのにも関わらず、陰との距離や影の落ち方(形態)に差異がある。
一見、整然と見える人物の並びは怖ろしいまでの乱立であり、個体の大きさに決定はない。手前の男たち三人は地上に足を付いているように見えるが確定の根拠はない。にもかかわらず、数多の人物は《立ちポーズ》という重力下における姿勢を保っている。
空に浮かぶ人物は《重力の否定》であるが、その姿形のポーズは《重力下》のものであり、硬直した人物は、あたかも駒のようである。
空間は歪まないと確信しているが、歪むことを肯定しないと三次元的な人物の配列が見えてこない。
空間の破壊(否定)、重力への反発、人物の物質化…すべては幻想空間である。虚しく巨大な仮想。現代人の豊かさが幻と帰したのちの残像かもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
みるとたしかに壺のなかのものは牛乳のクリームでした。
壺はコと読んで、個。
牛乳はゴ・ニューと読んで、語、new。
☆個(一つ一つの)語(言葉)は新しい(新しくなる)。
ーきみは、いったい、どうしようと言うのだね。きみの身になにが起ったのだね。何を赦してくれと言うのだね。城ではいつかきみに一指でもふれたことがあるかね、また、だれがふれたのかね。
☆何が望みなのか、何が起きたのか、何のために先祖の赦しを乞うのか、城(結末、本当の死)は、先祖に関わり合い、受け止めたろうか。