あの後ろ姿は?
サークルの帰り道、腰を曲げ、手押し車を押している後姿に見覚えを感じた。
「Kさん?」
やっぱり…。
最近はデイサービスにも通っている由。
退職後も元気に自転車に乗ってお使いをしていた面影は失せ、意気消沈の態。
「こうして、ぐるっと一回りするのを日課にしているの」と言う。ごく至近距離で行われるラジオ体操に誘っても「あそこまでは歩けない」と。その場所までは5分とかからないのに。
「妹がね、お姉さんタクシー代がかかりすぎるわって言うけど、自分のお金だし、行きたいところへは行きたいもの」と笑う。
「そうね、転んだら、それこそ一大事」と、わたしも相槌をうつ。
「もともと運動は苦手だったわ」というので「先生は体育祭の指導もなさったでしょう?」と(元教師に)伺うと、
「そうね、他のクラスより見栄えが良いよう私も頑張ったわ」との応え。(体育祭も指導者の競争心が先行していたことを初めて知った…。)
ゆっくり、ゆっくり…歩いていく後姿を見送りながら(いつか、わたしも…)の念を抑えきれない。
《あなたの今日は、わたしの明日》
長い立ち話・・・梅の花は散り果てたけど、桜を待つ春の昼下がり。
ゆっくり、ゆっくり行きましょうね。
『神々の怒り』
自動車の上に、疾走する馬の騎手が重ねられている。
あり得ない光景であるが、次の瞬間の悲劇は予想がつく。馬はまともに走れないし騎手は落下を余儀なくされる。下の自動車も無事ではいられない。即ち《事故》の前触れである。(例えば、両者が対向しているのなら危機一髪の回避はあるかもしれないが、この一見、何事もなく見える光景の数秒後の惨劇は避けられない)
生命の危機の前触れを何事もないような冷静さで描いているが《死》そのものの前兆である。
神々・・・太古の昔から人の死を悼み、人の死に霊を感じざるを得ない不思議な心境が信仰を生み出したのだと思う。
【生と死という自然の理】を司るものとしての心的中心(不可思議なるもの)が、神の始まりであり、地球上には数多の神さまが存在している。
その神が最も恐れる現象…それは《死》ではないか。
人が馬を走らせたり車を操縦するなどの叡智に文明社会の奢りはないだろうか。
『神々の怒り』、それは人為的悲劇(戦争・事故)による【死】にほかならない。
《死を回避し、生きよ!》と、怒っているのである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
それでもまだ残ってゐましたから、それは二人ともめいめいこっそり顔へ塗るふりをしながら喰べました。
☆懺(罪の赦しを乞う)字(言葉)の要(かなめ)は信仰であり、図りごとに嘱(ゆだねている)。
城の役人を村へ派遣して、きみの顧客を追いかけては、ちからづくできみのもとへ連れもどすようにせよとでも言うのかね。お城がこう答えますと、父はそれに反論してー
☆終える(死ぬ)べきである、そしてこれは宿命の小舟が流れることの布告であるが、権力をもって押し戻そうというのかね。しかしながら先祖の宿命をひっくり返すことー