〔稲村先生の授業〕
今回は前回(衣笠城址)に続いて大矢部地区の二回目。
「城って言ったって、闘いの時に逃げ込む場所のようなものなんですよ。東・北・西の三方に囲まれ、南に開けた場所を選んでやぐら(建屋)を建てたということが、川沿いの奥の高いところにお城があるという具合です。」
童子谷遺跡・満昌寺/摩崖仏から近殿神社、薬王寺(仏頂山)やぐら群(五輪塔)伝:和田義盛・1212年創建)を見学。
「五輪塔の崩れていない方は伊豆石の既製品で、形の不明な崩れかけた石は当地の岩盤からのものです」
円通寺跡ー戦後、円通寺が廃寺となった後の陸上自衛隊基地(更地)を眺めての説明。
大矢部に35年も住みながら、一度も通ったことのない道を歩いた。好天に恵まれた初春(彼岸の入り)の散策。大勢の参加者のため先生のお話がちょっと遠かったかもしれない。
稲村先生、瀬川先生、ありがとうございました。
『テーブルにつく男』
木炭で描いたスケッチ(下書き)である、上記のタイトルであったかも不明の絶筆。
男の着衣、首・頭部が欠如しているが、身体そのものも疑われる。テーブルのうえには本があり、それを手が抑えている。手首から切り離された手は果たして人間のものか石膏(あるいは石)で作られた疑似的なものかは未完ゆえ不明。
本を抑えている、つまりは観念の否定である。教え込まれた思考への反感・疑惑・不審、答えはあったのだろうか。
着衣を見て、中に入るべき身体の不在を確信するが、不在は現存を導き出す。
背景はダイヤとドットの連続模様である。平面であり、奥行きのある空間(自然・自由)の否定である。つまり自己認識により解放を認可しない精神・・・閉鎖的な心境の吐露ではないか。
ご破算で願いましては・・・マグリットの清算。
閉じた世界の中で本(思考における追究)に道を求めたことへのやるせない慙愧。果たして(わたくし)は存在したのだろうか・・・。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
と書いてありました。おまけにかぎ穴からはきよろきよろ二つの青い眼玉がこつちをのぞいてゐます。
「うわあ。」がたがたがたがた。
「うわあ。」がたがたがたがた。
ふたりは泣き出しました。
すると戸の中では、こそこそこんなことを云ってゐます。
☆諸(もろもろ)を決めるものは、普く照(あまねく光が当たる=平等)を願う魂である。
究(つきつめて)推しはかる途(みちすじ)を注(書き記す)運(めぐりあわせ)である。
だから、賄賂をつかませたって、なんの足しにもならないのです。しかし、これが父の希望でしたから、わたしたちは、それを妨げたくありませんでした。
☆だから、心をとらえたからと言ってどうなるものでもありません。けれど、それが父の希望でしたから、わたしたちはそれを邪魔しませんでした。