『汽車の中の悲しめる青年』
この作品を見て、『汽車の中の悲しめる青年』をイメージできる人は多分皆無である。
タイトルの『汽車の中の悲しめる青年』という文字を読んで初めて、作品と文字の意味とを結びつけようとする心理が働くのである。
確かに暗い場面であり、どこか崩れ倒れるような予感を感じさせる。〈青年と言うからにはここに描かれたものは人であるに違いない〉と鑑賞者は脳に言ってきかせる、ムリに強いるわけである。
言葉と絵(イメージ)、双方にはそれなりの吸引力があり、補い合うという関係が成立している。
〈悲しい〉と言っているのだから、〈これは絶対に悲しいのだ〉と鑑賞者は、自身を説得する。
描かれた対象物は、連続している。分解とも言えるし時間の持続とも考えられるが、分散によって対象物への凝視の目を逸らし印象を薄くしている。つまり焦点は散逸し、定まらない。そのものは在りつつ希薄な存在と化してしまう。
『汽車の中の悲しめる青年』は、居ないが居るという不可解な対象である。肯定と否定の渦に巻き込まれたような空気感に拘束されてしまう。
肯定することで一応の決着はつくが、即、否定が頭をもたげるという具合であり、この回転、この空無な回転の持続こそが『汽車の中の悲しめる青年』の根拠である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
「どつちでもいゝよ。どうせぼくらには、骨も分けて呉れやしないんだ。」
「それはさうだ。けれどももしこゝへあいつらがはひつて来なかつたら、それはぼくらの責任だぜ。」
☆骨(物事の芯になる)文の語(ことば)を頼りにすると、晰(あきらかになること)が認められる。
そして、父が朝出かけるときに、いつもすくなくともいくらかのお金をポケットの中でじゃらじゃらならせるようにしてあげることーこれが、長いあいだわたしたちの毎日のたのしみでした。
☆少なくとも音をたてられるほどに、先祖はお金を用意したのです。ーこれがわたしたちの償いでした。