紙芝居講座を受講しているけれど、苦慮している。
筋書きと画の下書きが完成したので、いざ彩色を・・・。鉛筆で描いている段階ではバランスが取れていたのに、色を置いていくとそのバランスが見事(?)に崩れてしまう。
モチーフがあってモチーフに依存して描くのではないということを思い知らされている。
数日後に迫った講習日までに、何とか全体の配色のイメージをまとめていきたい。
ため息をつきながら、作画の初歩を思いあぐねている。
本当に難しい…けれど、すごく楽しくもある!
新しい友人たち、先生の一言。
「紙芝居をしようとする人たちはみんないい人です」
ほんと、そんな感じ。メンバーにお会いできるのもすごく楽しみ。
『近接する金属の中に水車のある独身者の器具』
近接する金属なんてものは、ごく普通にありすぎると同時に必然性があり、説明不要である。むしろ、そう表記することで意味を霧消している。つまり意味不明であり言葉を抽象に化している。
しかもその金属の中に水車があるという。
川(水/液体)の中で水車は回るほかはなく、水車の必然性は笑止である。
独身者の器具なんてものは聞いたことがない。独身者は老人に至るまで男女合わせて数多存在するが、そのための器具?日常生活に欠如しているものを補う何か…配偶者がいないと満たされない欲望などもない。(元来、人間は独り身である)
全くの言葉の羅列である。意味を探ろうとすれば、するりと抜け落ちる。そのように駆使して並べられた言葉の空漠。言葉の一つ一つには意味は存在する、しかし任意に選択された言葉を接合すると意味は霧消する。いわば実験的試作であって現実生活(社会)には通用しないことを敢えて提示している。
もちろん作品本体との競合も不条理に満ちている。作品の部分を点検するならば即その不合理性に気がつくはずである。実際にこの形態を作ることは不可能であって、半円形ガラス板という平板(二次元)の中の図形であればこそ成立する不可思議なものなのである。
デュシャンの夢想・・・どうしたら、この世の中の秩序ある存在というものを破壊できるだろうか。あるいは非存在というものを存在する物(見えるもの)として鑑賞者の眼差しの中に差し出すことが可能になるだろうか。
《見ることは見えないものをも見ることである》その証明として、構築しつつ虚構の幻影という秘密を創意している。
こうしてお金をたくさん払ったかrといって、先方ではその見返りに特別なことをしてくれるわけにもいかなかったものですから、ときにはある書記などは、すくなくとも見かけだけはなにかしてやってるようなふりをしようとしたり、調査を約束したり、ある種の証拠はすでにつかめた、それをさらに追跡するのは自分の義務ではないが、きみのためになんとか努力してやろう、というようなことをほのめかしたりしました。父は、それを聞いて疑心を深めるどころか、ますます信じこんでしまいました。
☆数を数えたからといって、何も変わりはありません。先祖の書く人が幾度か少なくとも外見上はそうした試みをしたり、調査を約束したり、自分の義務ではないが、すでに発見したなどといかにも確信したかのように示しました。
父(宿命)は迫害が生じるのを疑わずに常に深く信頼するようになりました。